公開日:2025年8月25日

80年の距離——いま、ヒロシマといかに向き合うか。現代アートが切り開く新たな視点(文・半田颯哉)【戦後80年特集】

戦後80年を迎える今年、ヒロシマはどのように継承されるべきなのか。広島出身のアーティスト・インディペンデントキュレーターである半田颯哉が、同世代の4人の芸術実践者の活動を通して、80年という時間の重みと現代のリアリティが交差する地点で生まれる、批評的なアート実践の可能性を探る

「Take it Home, for (__) Shall Not Repeat the Error.」会場風景 撮影: 半田颯哉

戦後80年、アートが問うヒロシマ

80年。ある種の断絶を生むには十分な時間である。それだけの時間が経てば多くの人は亡くなり、社会は歴史を忘れることができる。

1945年は太平洋戦争の終戦80周年の年となる。そして広島出身者としては、太平洋戦争を終結に「導いた」原爆投下から80周年であるということも頭に浮かぶ。近年、日本の核保有論は度々議論の俎上に載り、被爆者の言葉は見くびられ、広島の語り部は客観性を欠く悪しき風習だとする論すら見られるようになりつつある。

そんな状況に対してアートでのリアクションが必要だと考えるようになったのは、広島を出て東京に来てから何年も経ったあとだった。広島出身者であるからこそ、ヒロシマはアートで軽く扱えるものではないことをよく分かっている。そんな思いを持っていたことに加えて、アートには政治や社会とは異なるもっと別の可能性がある、と思い込んでいたことも相俟って、アートでヒロシマに向き合うことはなかったのだ。しかし、東京と広島のあいだにある温度差のようなものを感じつつもあり、少しずつヒロシマに向き合う意志と覚悟が大きくなっていったと記憶している。

山本れいら「After the Quake」会場風景 撮影:林詩硯

アートとして最初にヒロシマに取り組んだのは、2021年に東京で開催した山本れいらの個展「After the Quake」だ。展示プロジェクト全体のプロデュースとキュレーションを担った本展は、高等教育をアメリカで受けた山本れいらがその視点を発揮し、原爆投下によって始まり、原子力技術の輸出入によって維持されてきた戦後の日米関係を考察するというものだった。山本れいら自身は東京出身だが、母親は広島の出身だ。そこに山本れいらと同世代の私がキュレーターとして加わり視点を補完していくのを自身の役割として認識し、それを引き受けた。

山本れいら「After the Quake」会場風景 撮影:林詩硯

内側と外側の視点

2023年、広島を選挙区とする当時の岸田内閣総理大臣の意向によって、G7サミットは広島を会場とした。広島の公的な顔は「サミット一色」に染まり、多くの連動イベントが開催された。しかし、モザイクアートや折り鶴アートといったある種「求められる」アートが並んでいたリストを眺めていると、現代美術の世界に身を投じてしまった私にとっては連動イベントのなかに「現代美術」のカテゴリーがなかったことに違和感と焦燥感を抱かざるを得なかった。それは、「現代美術」という領域の一端を担う者としての責任感であり、サミットという大きなイベントに対して当地の出身者としてなにもリアクションをしないことへの罪悪感であり、「競合がいない」状況を手に取った戦略的な動きへの衝動でもあった。

そうしたなかで、広島のアートスペース、タメンタイの協力を得て企画・開催したのが、「Take it Home, for (__) Shall Not Repeat the Error.」展である。厳戒態勢の平和記念公園、平和記念資料館の目と鼻の先で開催した「Take it Home」展は反響を受け、同年に東京、今年の春にはニューヨークに巡回し、秋にはニュージャージーにて展開予定である。そんな「Take it Home」展ではふたつのテーマを設定した。

「Take it Home, for (__) Shall Not Repeat the Error.」会場風景 撮影: 半田颯哉

ひとつ目は、「1945年を経験していない世代の自分たちの持つリアリティを呈示する」ことだ。まず前提として、原爆の被害の悲惨さを伝えるならば、アートによって伝えるよりも資料館で資料・史料を見てもらうほうがいいという思いがある。そのうえで、アートプラクティスとしての質を上げていくためにも、広島の「平和教育」を受け、東京に出て温度感の違いを知り、そして広島での生活のなかで当たり前のように「ヒロシマのことを伝えていかなければならない」という使命感を内在化していた自身の視点を入れなければ、リアリティに欠け真に迫るものとならないと考えたのだ。

ふたつ目は、広島の中でやるからこそ「被爆地ヒロシマ」という枠組みのひとつ外側にフレームを置くということだ。ヒロシマ、ないしは日本を「日本-アメリカ」の二項対立によって絶対的な被害者としたフレームでは不可視化されてしまうが、地続きであるはずのものをつなぐ。そのために、広島出身である自身と、広島出身の母を持つ山本れいらに加えて、原爆開発に用いられたウランの原産地であったコンゴ民主共和国出身のシクステ・カキンダ、そして国内の核実験による被曝者のいるアメリカ合衆国を拠点とするケイ・イトウの4人のグループ展とした。

「Take it Home, for (__) Shall Not Repeat the Error.」会場風景 撮影: 半田颯哉

内側から見るか、外側から見るか。県内出身者が見るか、県外出身者が見るか。それによって広島の景色は異なるものとなる。そうした景色の違いに焦点を当て、今年の5月にタメンタイの山本功、広島市立大学の堀口智尋との共同キュレーションで広島のギャラリーブラックにて「Hiroshima - Inside/Outside」を開催した。原爆投下から80年が経ったヒロシマ/広島をとらえていくために、複数形の視点を持つ必要があるのだ。

「Hiroshima - Inside/Outside」会場風景 撮影:ローレンス・アロイス・フーター

前置きが少し長くなったが、本稿ではそんなヒロシマとの距離を考えさせてくれる筆者と同世代の芸術実践者を紹介していきたい。戦後、そして被爆から80年という年月が経った広島に向き合うための現代の視点とこれからのリアリティがそこにはあるはずであり、本稿がそうした実践と出会うためのきっかけのひとつとなれば幸いである。

「Hiroshima - Inside/Outside」会場風景 撮影:ローレンス・アロイス・フーター

山本功(アートマネージャー・タメンタイ代表)

前段でも何度か触れた、広島をベースとしてアートマネジメントを手がけるタメンタイは、広島出身で大学進学・就職を経た後に広島に戻ってきた山本功によって運営されている。広島の企業とアーティストの橋渡しを行うプロジェクトマネジメントだけでなく、広島市中区鶴見町にて独自の視点でプログラムを展開するオルタナティヴ・スペース、様々な受講者に開かれた学びの場である「つるみアートスクール」などの運営も行う。また山本は2年に一度、ゴールデンウィークに開催されるHAGW(ヒロシマ・アート・ギャラリーズ・ウィーク)の運営メンバーでもあり、広島のアートコミュニティづくりにも貢献するひとりだ。

山本が大学時代に専攻していた文化地理学の視点が現れる、土地の植物の写真や映像を組み合わせて架空の島をつくる渡辺真悠の展示や、コロナ禍のなかで注目されたマスクに焦点を当て、「マスクに恋をしたアイドル」の視点からマスクに向けられた社会的イメージを描いた美音異星人の異色のインスタレーション展示「恋するマスク=変するマスク」など、オルタナティヴ・スペースとしてのタメンタイのプログラムはユニークなものとなっている。

「タイムとマシンの平和利用」会場風景 画像提供:YUGEN Gallery

そんな山本の視点が広島に向けられるとき、「求められるヒロシマ像」への批判的な視点ともなる。「平和を希求する若者を演じ、子供ながらにお得意の『それっぽいこと』を嘯くことが『正解』」(*1)とされる「模範的高校生」(*1)だった山本は、大学の卒業論文で「ヒロシマを歌うこと」と「ヒロシマを歌わせること」の構造に踏み込んだことで、もはや山本は「まっすぐな広島っ子」ではなくなっているのだ。

「Take it Home」展への広島と東京、それぞれの場所での観客のリアクションをソーシャルメディアなどで見ていた山本は、ある違和感を指摘する。それは、同展においてクリティカルだったポイントは、広島のなかに内在される広島を中心とした「ヒロシマの語りの文法」を脱却とし、広島に外の視点をもたらすものでもあった。しかし東京においてそれは、「原爆のことを語り継ぐということは重要でありこうした取り組みは素晴らしい」という視点に再回収されてしまった、というものだ。

「タイムとマシンの平和利用」会場風景 画像提供:YUGEN Gallery

そうした観点からタメンタイの企画により東京のYUGEN Galleryで昨年開催されたのが「タイムとマシンの平和利用」(*2)であり、加藤康司 、土井紀子、吉田真也、山口達典の4名の作品によって「直線的に整理されてしまった公的記憶を錯綜させ」ようとするものだ。たとえば、土井紀子の作品に映る馬の影は原爆によって犠牲となった馬を慰霊する馬魂碑から来たもので、原爆の犠牲となった人間以外の存在と、軍馬がいた軍都・廣島という広島の加害者の面が織り交ぜられる。

「ひろしま みどりとりどり」会場風景 画像提供:YUGEN Gallery

また今夏もタメンタイは徳本萌子、渡辺真悠、高松明日香、有田大貴による「ひろしま みどりとりどり」を企画し、同じく東京のYUGEN Galleryにて開催された。かつて「75年は草木も生えない」と言われた広島には緑が溢れたが、しかし80年の経過によって倒木も相次いでいる。そんな広島の80年という年月を植物から考えていくという企画のようだ。(*3)

「ひろしま みどりとりどり」会場風景 画像提供:YUGEN Gallery

平井亨季(アーティスト)

タメンタイでもふたり展に参加しており、広島市現代美術館が主催したオープン・プログラム「Hiroshima MoCA FIVE 23/24」で広島市現代美術館賞と特別審査員賞を受賞した平井亨季は、広島県呉市出身のアーティストだ。

平井亨季

筆者が修士課程在籍中に平井は同じ専攻の学部在籍中であり、同じ年の卒業・修了作品展で展示している。在学中より知っている作家が公募へ入選・受賞したことはやはり嬉しく、広島市現代美術館での展示も非常に楽しみに観に行った。

神奈川県藤沢市でのレジデンスに参加した際に制作され、「Hiroshima - Inside/Outside」展でも展示されたた映像インスタレーション作品《祖父の手を持つ》(*4)は、三浦半島にある特攻兵器「震洋」基地跡へのリサーチと、旧海軍に所属し特攻に志願していた平井自身の祖父の手記を重ね合わせたものである。

「Hiroshima - Inside/Outside」会場風景より、平井亨季《祖父の手を持つ》(2022-23) 撮影:ローレンス・アロイス・フーター
平井亨季 祖父の手を持つ 2022-23

「Hiroshima MoCA FIVE 23/24」での入選・受賞作である《インク壺としての都市、広島 / 呉》では、呉という土地で育った平井の視点で呉と広島が描かれ、原爆を茶化すことは許されないという広島的な規範と、停泊している海上自衛隊の船を見ながら自衛隊の幹部候補生試験を受ける友人に空母化される護衛艦の話を聞くという呉的な経験が交差する。家族や友人との会話をベースとした個人的な等身大の経験から語られ、また平井の語りが広島弁によってなされることもあり(*5)、歴史の大きな物語のみに寄らない個人の物語が織り重なる作品となっている。

「Hiroshima MoCA FIVE 23/24」会場風景より、平井亨季《インク壺としての都市、広島 / 呉》(2024) 写真:花田憲一

呉という街には明治期から第二次世界大戦終戦まで鎮守府が置かれ、呉海軍工廠では戦艦大和の製造も行われた。戦前は陸軍の街で戦後は「平和の街」としてのアイデンティティを確立していった広島市とは対照的に、戦後も呉には海上自衛隊の基地が置かれ、近年も海軍カレーや海軍肉じゃが、大和ミュージアムなど、海軍の街としてのプロモーション・ブランディングも行われている。豪雨災害でJR呉線が不通になったため、代替手段として船を使った際に眺めた見知ったものとは異なる広島と呉の風景がこの作品の起点となっているが、平井もまた「ヒロシマ」に異なる視点を向けそれを提示している実践者のひとりと言えるだろう。

平井亨季 インク壺としての都市、広島 / 呉 2024

イタイミナコ(アーティスト)

福岡県出身のイタイミナコは広島市立大学の芸術学部で学部・修士を修了し現在は博士課程に在籍中のアーティストであり、広島の市営基町高層アパート、通称基町アパートの自治会長である(*6)。

筆者はイタイとは「Take it Home」展の開催中に山本功の紹介で知り合い、その夜には3人で夕食をともにした。様々な人とすぐに打ち解けるコミュニケーションスキルはイタイの作品を支える要素のひとつでもある。

イタイミナコ 画像提供:Pride of Hiroshima 撮影:柳谷武

イタイが得意とするスタイルのひとつは本人が「憑依芸」と呼ぶパフォーマンス作品で、イタイが特定の人物になりきってその人の語りを再現するというものだが、それはたんなるモノマネ芸に収まらず、証言の伝えていくための新たな方法にもなっている。《爆ド宮島汽水航路ーコロナ禍における遊びのブンカケンー》は、広島県廿日市市宮内にあるアートギャラリーミヤウチでイタイが2021年に行ったパフォーマンスであり(*7)、その記録映像を映像作品とした同名の作品は「Take it Home」展でも展示された。

「Hiroshima - Inside/Outside」会場風景より、イタイミナコ《爆ド宮島汽水航路ーコロナ禍における遊びのブンカケンー》(2021) 撮影:ローレンス・アロイス・フーター

アートギャラリーミヤウチの学芸員・今井みはると、その隣のアトリエスペース・スタジオピンクハウスで活動するアーティストの諫山元貴との会話の中で「コロナ禍で何を考えているか」と問われたイタイは、行くところもなく公共のベンチに座る人が増えている光景を思い起こし、そうした人々の話をホワイトキューブに持ち込めないかと考えたことからこのパフォーマンスは始まったという。イタイは広島のベンチや平和公園と宮島をつなぐフェリーの中で様々な人への聞き取りを行い、自身の言葉や表現を挟んでしまうとこぼれ落ちてしまうリアルな言葉や空気感も含めて伝えるために、その言葉を話し手の癖や話し方も含めた憑依パフォーマンスというかたちで再現する。

イタイが話を聞いた相手には被爆者も含まれる。そこにはカメラを前にしたときに語られるような公の場に向けた「被爆者の体験談」では語られないような赤裸々な体験談や飾らない言葉が現れる。たとえばタイトルにある「爆ド」は「原爆ドーム」の略称であるが、広島の人間でもあまりこうした略称は用いないし、筆者もイタイから教わるまでは聞いたことがない言葉だった。「原爆ドーム」という歴史と意味の重さからそのした略称を使うことは憚られる意識があるわけだが、逆に言えばそうした言葉の含まれる語りはまさに飾らない語りである。そしてそうした「生きた言葉」を被爆者の口から自然に引き出すことができるのは、知らない人に対しても話しかけすぐに打ち解けることができてしまうイタイだからこそできることだろう。

画像提供:Pride of Hiroshima 撮影:柳谷武

さらに戦後80周年の終戦の日となる8月15日には、自治会長を務める基町アパートで語られた戦時下の記憶を語り継ぐパフォーマンス《ほんとうはもう手放したい、でも手放したくないものがある》が広島で開催された。(*8)

また、アートギャラリーミヤウチにて被爆80周年記念事業【第2部】として9月15日まで開催中の「夏休みプロジェクト『KIT Miyauchi 01』」でも展示中であり、開催中はパフォーマンスも予定されている。

画像提供:Pride of Hiroshima 撮影:柳谷武

青木文太朗(ハトノス代表)

ハトノスという演劇団体を立ち上げた青木文太朗は、広島出身で東京を拠点に演劇活動を行っている。ハトノス、すなわち平和の象徴の鳥とされている鳩の巣を意味するこの演劇団体で青木は脚本・演出として広島と原爆をモチーフとした作品を発表している。

筆者と青木はじつは中学・高校の同級生であり、小さな演劇部にともに在籍していた。高校卒業後はしばらく疎遠となっていたが、筆者が東京芸大の在籍中に知り合ったライター・志賀玲太が「良かった」とソーシャルメディアに投稿(*9)していた演劇がハトノスの公演であり、そのクレジットに青木の名前を見つけて活動を知ることとなった。広島の旧い友人と東京で美術を通じて知り合った友人がつながることに不思議な縁を感じたものだ。

『始発まで』、『忘れ果てて』、『毒の島には近づかない』チラシ 画像提供:ハトノス

ハトノスの作品には原爆投下三日後には運転を再開したという路面電車を扱った、旗揚げ公演である『始発まで』や、被爆者そして被爆2世への差別を扱った『忘れ果てて』、現在はうさぎの島として人気だが戦時中は旧陸軍による毒ガス製造が行われていた大久野島を扱った『毒の島には近づかない』などがある。(*10)

そして2024年に発表され、今年2025年には東京・広島で再演を果たした『Pica』は黒い雨をモチーフとしている。広島の原爆の日である8月6日を指して「それは私が一番広島を嫌いになる日だ。」という衝撃的で、しかし同時に核心を突いたセリフがある本作は、いわゆる「黒い雨訴訟」ーー原爆投下後に降った放射性物質を含む黒い雨とその降雨範囲を争点とした被爆者認定を巡る訴訟ーーを中心に扱いつつ、現代の広島の抱える問題までとらえている。

『Pica』チラシ 画像提供:ハトノス

青木が得意とする群像劇形式の『Pica』では、様々な立場と時代の登場人物たちが交差して物語が展開していく。黒い雨訴訟を専門として追いかける新聞記者。戦時下を生きて黒い雨を浴びた女学生。原爆投下直後に、それが未来のためになるはずだという使命感から黒い雨の降雨範囲を駆け回って調査した科学者の調査結果が逆に補償される被爆者の範囲を限定するのに使われてしまったという苦悩は胸に刺さるものだった。

そして本作の序盤で「そうやって静かな空間を作ってしまえば、私たちはもっと高尚な祈りの時間を過ごすことができるのだろうか」と問題提起されるのは、2021年6月に広島市議会が可決した平和推進基本条例の内容だ。そこには次のような条文がある。

「第6条 2本市は、平和記念日に、広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式を、市民等の理解と協力の下に、厳粛の中で行うものとする」(*11)

端的に言えば、式典の最中のデモを抑制しようとする内容である。「8月6日の公園は静かであって欲しいと私も思う」という前置きにも同意しつつ、政治を排し、言論を排そうとするような状況には筆者も反感を覚える。『Pica』の作中、戦時下のために学校で音楽の時間が減らされていくなか、自分たちのために歌を歌い始めた女学生たちは憲兵に見つかることよってそれを厳しく禁じられてしまう。作中で明言されているわけではないが、そうした光景はどうしてもいまの式典を取り巻く状況と重なってしまう。戦時下の過ちは、もしかするとほかのかたちで繰り返されてしまっているのではないだろうか。

『Pica』東京公演 画像提供:ハトノス 撮影:古元道広 

ヒロシマとどう距離を取るか

お気付きかも知れないが、本稿で紹介した4人はいずれも(そして筆者も)広島の外にいたという共通点がある。広島の中ではヒロシマを扱うことは当然のように尊ばれ、ヒロシマは日常の一部としても存在している。芸術に携わっているならば、周囲の誰もが大事だと考えていて、それでいて日常であるものを扱おうとするきっかけはなかなか生じ得ない。あるいは、あまりにもテーマが大きく重すぎるため「いい子」になってしまうことも少なくない。ずっと広島の中にいてヒロシマに向き合うことはじつは難しいのではないかと思う。そしてだからこそ「内」と「外」の視点を行き来し、その距離を測り続けている人たちの実践に惹かれてしまうのかもしれない。

80年という数字はもちろんたんにキリのいい数字であるというものでしかない。ただ、その年月には重さがあり、歴史があり、人々がいる。そしてきっと我々も、この先に視点と言葉と想いを積み重ねていく人々のうちのひとりなのだ。

「Take it Home, for (__) Shall Not Repeat the Error.」会場風景 撮影: 半田颯哉

*1——山本功, 2020年8月8日「平和を希求する模範的高校生だったぼくは、なにも知らなかった」(https://note.com/isaoyamamoto/n/nd5a968d2883b)
*2——タメンタイ「タイムとマシンの平和利用」(https://tamentai.co.jp/2024/06/19/time-and-machine-for-peace)
*3——タメンタイ「戦後80年特別企画「ひろしま みどりとりどり」(https://tamentai.co.jp/2025/06/20/green-green-hiroshima/)
*4——平井亨季「祖父の手を持つ 2023」(https://kokihirai.com/work9.html)
*5——筆者の個人的な鑑賞体験の話になるが、在学中に筆者は平井とは標準語で会話しており平井が広島出身者であるということを意識することもあまり多くなかった。そうしたコントラストもあり、平井の広島弁での語りは平井の故郷に対する親密な視線がより強く感じられた。
*6——イタイの自治会長としての顔はこちらも参照されたし。TD「広島・基町アパートを訪れて(後編)自治会長は美大生? 板井三那子インタビュー」2023年3月24日(https://www.td-media.net/report/motomachi-apartment-vol2)
*7——アートギャラリーミヤウチ「イタイミナコ "爆ド宮島汽水航路 -コロナ禍におけるあそびのブンカケン-"」(https://miyauchiaf.or.jp/exhibition/itai)
*8——Pride of Hiroshima「イタイミナコさんによるパフォーマンスの開催 ほんとうはもう手放したい、でも手放したくないものがある」(https://prideofhiroshima.jp/news/4652)
*9——X(旧Twitter)志賀玲太 Shiga Reita @Petzvaled, 2019年3月24日(https://x.com/petzvaled/status/1110007303451770881)
*10——ハトノスの過去の作品についてはこちらを参照されたし。ハトノス「上演記録」(https://www.hatonosu86.com/works.html)
*11——広島市「広島市平和推進基本条例について」更新日2025年3月13日(https://www.city.hiroshima.lg.jp/atomicbomb-peace/1036658/1021117/1015079.html)

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半田颯哉

半田颯哉

アーティスト・インディペンデントキュレーター。1994年、静岡県生まれ、広島県出身。科学技術と社会的倫理の間に生じる摩擦や、アジア人/日本人としてのアイデンティティ、ジェンダーの問題を巡るプロジェクトなどを展開している。また、1980年代日本のビデオアートを研究対象とする研究者としての顔も持つ。東京芸術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻修士課程および東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。