イワニ・スケース えぐられた大地 2017 © Courtesy the Artist and THIS IS NO FANTASY
アーティゾン美術館では、女性アボリジナル作家に焦点を当てる日本で初めての大規模展「彼女たちのアボリジナル・アート オーストラリア現代美術」が、9月21日まで開催されている。
近年、地域固有の文化や歴史に根ざした表現への再考が進むなか、オーストラリア先住民が手がけるアボリジナル・アートが現代美術界で新たな脚光を浴びている。また、現在のオーストラリア現代美術を牽引する女性作家の多くがアボリジナルを出自とし、国際的な存在感をますます強めている。そうした動向があるなかで、本展は8組のアーティストの作品を紹介している。
彼女たちが美術館での「鑑賞」という行為そのものを静かに問い直していく。壁ではなく床に置かれた絵画、裏側を見せるように吊るされた樹皮のキャンバス——私たちが当たり前だと思っていた枠組みが、ゆっくりと崩れていく感覚を味わえる。
この問いかけに、あなたはどう応えるだろうか。社会学を専門とし、脱植民地化や共生といったテーマに取り組む鈴木弥香子が本展をレビューする。 【Tokyo Art Beat】
「見る」とは、どのような行為だろうか。それがそっと、しかし鋭く問われていた展示だった。先住民女性アーティストたちの作品は、私のなかの「まなざし」を揺さぶり、反転させ、大きな揺らぎを残していった。
一方的にまなざしていたつもりの私に、いつの間にかその視線は反転し、問い返してくる。「あなたは、どう応えるだろうか?」——。
彼女たちの作品の数々は美しく、力強い。だが、それだけではない。見る者の立場を静かに揺さぶり、私たちの歴史的な位置、そして語る者/語らざる者という関係性そのものを、そっと揺さぶってくる。このまなざしの反転こそが、「脱植民地化(decolonization)」という言葉のひとつの本質ではないかと、私は思った。
近年、私が身を置く学術の世界では、この脱植民地化が、世界的に注目を集めている。形式的な植民地支配が終わったとしても、私たちが世界を思考し、表象する方法は、いまなおコロニアルな知の枠組みの大きな影響を受けている。たとえば、これまで「理論」とみなされるのは北米やヨーロッパの白人男性によるものが中心であり、それ以外(the Rest)の地域はその「フィールド」や「事例」としてしか扱われない傾向があった。大学教育や研究においては、これまで前提とされてきた知の枠組みやカリキュラム自体を問い直す動きが起きている。それは「誰が語ってきたのか」、そして「誰が沈黙させられてきたのか」という問いと密接に関わっている。
そして、この「脱植民地化」という動きは、アートの世界にも大きな影響を及ぼしている。「脱植民地化」の実践は、たんに「非西洋(the Rest)」出身作家の作品も表舞台に上げ、鑑賞の機会を増やすということだけでは終わらない。より深く、アートとは何か、何をもって表現とみなすのか、どのように鑑賞されるべきかといったアートをめぐる前提や枠組みを問い直す実践である。
本展には、「脱植民地化」のための繊細な仕掛け——制度や鑑賞の前提をそっと揺るがす工夫が、随所に散りばめられている。たとえば、ユーカリの樹皮を剥いでキャンバスとしたノンギルンガ・マラウィリの作品。そのうちの一作《ボルング》(2016)は、裏側を見せるように吊るすことで、キャンバスが樹皮であることが直感的に伝わるように展示されている。
さらに、エミリー・カーマ・イングワリィの作品には、彼女自体が絵を描くときに床にキャンバスを置いて制作するという手法にならい、あえて床置きで展示されているものもある。
これらの展示は、キャンバスに描かれ、額装され、壁に掛けられ、正面から鑑賞されるという、長らく支配的だった西洋的な鑑賞スタイルに揺らぎを与えているのだ。
さらに、本展を考える上で重要なのは、「誰」が語っているかという点である。これまで、歴史や記憶は、多くの場合、植民者の言葉によって語られ、意味づけられてきた。だが、ここに並ぶ作品たちは、語りの主体を、侵略者ではなく被植民者として、そして男性ではなく女性として、編み直すことから生まれている。彼女たちは、自分の生まれ育った大地や家族、受け継がれる記憶、コミュニティの物語や神話と向き合いながら、沈黙させられてきた声にかたちと息吹を与えている。
彼女たちの作品を鑑賞し、私は言葉にならない熱のようなものを感じた——それは、集合的な怒りと、そして希望の精気である。作品のなかからは、自分たちの尊厳や大地、そして生がいかに踏み躙られてきたかという記憶と歴史が、たしかに立ち上がっていた。
そうした怒りと希望を、作品の一つひとつから、たしかに受け取った。
ジュディ・ワトソンの《記憶の深淵》(2023)は、心に深く残った作品だ。インディゴに染められた3枚の麻布。この3枚を通して、ワトソンは過去、そして未来を描き出している。
左の布には、大量虐殺が行われたことで知られているカーペンタリア湾の地図が描かれている。そこは、ワトソンの祖先たちが暮らしていた場所だった。この地図に書き込まれた白線には直線が多く、人為的に植民者たちが大地を踏み躙り、支配していたことが浮かび上がってくる。
過去を象徴する左の布に対し、中央の布には図像は見られない。ただ、中心に線のようなものが滲んでいる。これは、過去と現在、その先の未来の間にある隔たりやあわいのようなものを表現しているようにも見える。
そして、右の布には少女の横顔が描かれている。これは、ワトソンの娘、ラニのシルエットだ。左が象徴する過去とは対照的に、こちらは未来へのまなざしを感じさせる。おそらくは現在を生きる若い世代、そして彼女たちが継承していく歴史と記憶の象徴なのだろう。少女のまなざしが向かう先には、過去の痛みと、そして過去に向き合うことの困難さ、未来への希望が重なっているように感じられた。
過去に向き合うことは、決して容易なことではない。けれど、過去に向き合うことでしか、未来を構想することはできない。この展示からは、まさにそうした、希望へとつながる力が、静かに、けれど確かな強度で放たれているのだ。
これらの作品が放つ「希望」を身体全体で受け取ると同時に、「怒り」をも、私は真摯に受け取った。私は、日本で生まれ暮らす者として、この「怒り」を傍観してはならないと思う。彼女たちの鋭くも静かな眼差しの、その延長線上に、たしかに私は存在している。
まず、先住民族への差別や排除の問題は、決してオーストラリアの特殊な歴史などではない。ここ日本にも、アイヌや琉球といった先住民の人々は存在するのであり、彼ら/彼女たちの「声」、文化や記憶をめぐる語りは、長いあいだ抑圧され、奪われてきた。
さらに、アボリジナルの人々への加害に、私たちは間接的に加担してきたという事実にも向き合う必要がある。たとえば、イワニー・スケースの作品、《えぐられた大地》(2017)からその関係について考えてみよう。
彼女の作品では、ウラン資源採掘によっていかにしてオーストラリアの大地が傷つけられてきたかが、強い存在感をもって表現されている。とくに彼女の故郷、南オーストラリア州は採掘が盛んな土地として知られている。採掘の結果、アボリジナルの人々は、深刻な健康被害と環境破壊、大地の空洞化に直面してきたのである。
そして、そのウランの多くは、日本の原子力発電に使われてきた(*1)。私たちの「豊かで便利な生活」は、彼ら/彼女たちの犠牲の上に成り立ってきたのだ。
本展では、私は何度も「まなざされている」感覚に立ち止まらせられた。それは、こちらが一方的に他者を「知る」ためのまなざしではない。むしろ、自分自身のまなざしが、問い返されるような経験である。
『アイヌがまなざす』(2024)という著作の中で、石原真衣と村上靖彦は次のように論じる。
まなざされているという緊張感こそが、一方的に誰かを消費したり、規定したり、従わせたり、まなざしたりすることを自省させる唯一の一歩ではなかろうか(*2)
「まなざす」側にいると思っていた自分が、じつは「まなざされていた」存在でもあったことに気づく。この気づきこそ、植民者側に位置する私たちが、脱植民地化に向き合うための、最初の実践なのではないか。誰か理解したつもりになったり、意味付けたりすること、その背後にある特権的な眼差しと暴力性を、私たちは問い直さなければならない。本展には、そうした問いかけが、強く、静かに、込められているように思う。
本展は、たんに「異文化」を紹介する場ではない。これまで語られてこなかった声が、空間全体に編み込まれ、私たちの知覚や感受性を静かに揺さぶる。それは、アートを通して脱植民地化を思考し、そして感じる、複数の声が静かに響き合う空間である。
ここで私たちは、彼女たちの怒りと希望を受け取り、その声の響きに耳を澄ませながら、自らの歴史と向き合い、これからの未来を、どのような関係と責任の上に描きなおしていくのかを問われている。そしてその問いかけに、どう応答するのか——それこそが、私たちの応答責任(responsibility)なのではないか。
——あなたは、どう応えるだろうか?
*1——塩原良和, 2017,『分断と対話の社会学』慶應義塾大学出版会. 松岡智広, 2014,「ウラン採掘地から福島へのオーストラリア先住民の眼差し」山内由理子『オーストラリア先住民と日本――先住民学・交流・表象』御茶の水書房.
*2——石原真衣・村上靖彦, 2024, 『アイヌがまなざす――痛みの声を聴くとき』 岩波書店.
鈴木弥香子
鈴木弥香子