いつかの神宮での交流戦の打席に立つ背番号6・中田翔
野球のほんとうの楽しみ方が、わからない。
毎年甲子園の季節になると、球児の活躍とドラフトが楽しみでもあるいっぽうで、昔の陰鬱な記憶が甦る。なんのためかわからないスクワット、罰走、声出しという名の怒号――。
いちおう中高は野球をやっていた。「いちおう」というのは、大怪我で補欠だったということと、進学校の弱小野球部だったこと、そもそも誰からも野球をやっていたような見た目や性格には思われないからだ。とはいえ、むしろアートの仕事にこうして携わってきた遠因には、あの時代の封建主義、スポ根、マッチョな男子校生活への反動が大いにあると思っている。
夏の最後の試合で志願して代打に出た一塁線ギリギリのファーストゴロで、3−6−3のダブルプレーでゲームセットになりそうでならない、ギリギリのヘッドスライディング。そんな涙を誘う最後を、努力を、自分の中で正当化できなかったこの数十年でもあるのかもしれない。
運動神経もないままに中学生になって始めた理由も、「男なら野球だろう」、という、いまこうしてスクリーンに入力することすら恥ずかしく憚られる、これまで誰にも口にすら出したことのないものだ。
いまでこそ、イチローや大谷翔平の、それまでの日本球界からは想像もできなかったようなメジャーリーグでの圧倒的な活躍から、野球に「入って」いける子供たちが心底うらやましい。
昔は、部活にも寄り添ってくれていた母でさえ、私がとうに引退したあとにBSで毎朝流れてくるイチローのファンになり、インフィールドフライに始まる複雑な野球のルールをようやく覚えていたものだった。
夏休みの先日、地元の中学校のいつぶりかわからない、タイムカプセルを掘り返そうという同窓会の誘いが来ていた。返事もせぬまますでに飛行機が取れないのを再確認して断念したその夜、映画『国宝』を観に行った。ほぼ3時間ある上映は、内容とは別に自分の中では複雑に、かつひどくセンチメンタルに映った。
「昭和」を焼き直ししてなんになる、というのが一言での感想だ。
映像美、そして厳しい稽古に耐えたのは想像に難くない、主役2人の男性の迫真の演技はもちろん大いに賞賛されるだろう。そのいっぽうで女性たちが最後の最後まで完全に後景化され、これまで捨てられて踏み台にされてきたひとびとの人生も踏まえたうえでの「景色」が、生存者バイアス以外のなんなのか――。
いったいどこが「きれいやなあ」だったのか、問い詰めてみたいとも思えた。
行かなかった同窓会を想像しないようにしながら、隔離された空間で見る梨園の舞台裏と血の滲む(実際にそうであっただろう)努力は、野球をも思い出させた。2年の頃、寮長でもあった監督は、部活を辞めると言った同期を恫喝し、その責任を取って辞任した。中学から一緒だった同期もまもなく去っていった。熱中症で顔がしびれていてもそんなの気合だろ、と上級生にどやされた。思い出したくないことを思い出した夏。
イチローや大谷翔平がいなかったから、いまもプロ野球を見ていなかったかもしれないほど、野球に対して複雑な感情を抱いている、というのが正直なところだ。四半世紀前の自分にまだ野球を見ているよ、と胸を張って言えるだろうか。子供にこの「スポーツ」を十全の自信を持って見せられるのか。
いまだに「美女」チアリーダーが、始球式での女性アイドルの「ノーバン」投球が、どのスポーツメディアの見出しとしても重宝される、2025年夏。
メジャーリーグをも凌駕すると言われる形態のボールパーク、エスコンフィールドでのファイターズの中継ですら、実況はキャッチャーを「女房役」と引き立てる。
甲子園出場校の暴力事件の以前に、大いに修正すべきところがある野球というスポーツ。
日々辟易としながらも時代は書き換わっていくし、「お家芸」は辞めよう、とファンも声を上げねばならない。
映画『国宝』でも子供の世代への指導において、暴力は描かれなかった。
いま矢面に立つ指導者たちが持つべきは、ハラスメントを自分の代で終わらせる、という矜持だ。
野球の楽しみ方が、まだわからない。
ただ、あの時に楽しみたかった、そしてこれから「新しい景色」を見たいという気持ちは、この夏も変わらない。