左から、松岡剛、黒田大スケ
広島市現代美術館で「被爆80周年記念 記憶と物 ― モニュメント・ミュージアム・アーカイブ」展が9月15日まで開催されている。戦争や原爆の「記憶」とアート作品をはじめとする「物」との関係に焦点をあて、記憶の象徴であるモニュメントや、歴史の継承において美術館が果たす役割、アーカイブのあり方などを探る展覧会だ。
平和記念公園を手がけた丹下健三をはじめ、これまで多数のアーティストや建築家が「広島/ヒロシマ」と向き合い、制作してきたが、そうした作品が生み出され、人々に受容されている文脈はじつに様々だ。ときにはひとつの作品やモニュメントが、時代や場所によって180度違うメッセージを発しているととらえられたりもする。そんな複雑ながら興味深いモニュメントや芸術作品と、美術館のあり方について、いま考えるべきこととは。本展の参加作家である黒田大スケと、企画を担当した同館学芸員の松岡剛に話を聞いた。【Tokyo Art Beat】
*本展のレポート記事はこちら
「記憶と物」とはずいぶん大仰な感じがするタイトルだが、副題に並ぶ3つの言葉、「モニュメント・ミュージアム・アーカイブ」に目を向ければ、本展のテーマが持つ現代性が見えてくる。
人は、起きた出来事をどのように記憶するのか? その記憶を担うものは、誰が、どのようなかたちで残すのか? 残されたものを通して、現在の人々は、過去とどのように向き合うことができるのか?
2020年のブラック・ライヴズ・マター運動のなかで広がった、過去の英雄像の撤去にも代表されるように、今日、記憶装置としての美術作品と、現実の社会の動きとの軋轢を含む関係性は、クリティカルな問題として存在している(日本でもアーティストの小田原のどかが、「彫刻」を軸に、制作・批評の両面でこうした領域を扱い続けている)。この問いが、ものを残すことを使命とした美術館にとって本質的であることは言うまでもない。
とくに広島は、かつての軍都であり、被爆地であるという土地柄、街中で記念碑や慰霊碑などのモニュメントを見かけることが多い地域だ。そして広島市現代美術館(以下、広島現美)は、開館以来、こうした特別な記憶を持つ土地における、現代美術や美術館の役割を模索し続けてきた。
本展が問いかけるものとは何だろうか? ここでは参加アーティストの黒田大スケさんと、担当学芸員の松岡剛さんへの取材を軸に、その一端をのぞいてみたい。
本展の出発点は、上記のように歴史との接点が身近にある土地の美術館に長年勤めてきた松岡さんの、「モニュメントをアクティブなものとして扱いたい」という思いだった。
松岡「以前から美術の枠に留まらない、よりパブリックに開かれた存在としてのモニュメントに関する展示をしたいという思いがありました。とくに広島だと、アメリカ大統領が来日した際、慰霊碑や資料館をどの程度見たのかが話題になるなど、そうした対象が注目される機会が多いんです。歴史認識に関わるこうしたものの存在とは何なのか。自分たちの美術館のことも含めて、被爆80年の機会に考えられたらというところから企画を始めました」
いっぽう、松岡さんには、社会的な記憶を担う対象を扱ううえで、「過去を現在の視点から一方的に見るだけでは展覧会としての厚みが足りない」という懸念があった。そこで内容に加えられたのが、黒田大スケ、毒山凡太朗、蔦谷楽、フィオナ・アムンゼン、小森はるか+瀬尾夏美という、記憶や記録に関わるテーマを扱う5組の現代作家だ。
松岡「現在の感覚で過去の対象を受け入れたり、拒絶したりするのではなく、その対象をどのように面白がり、そこから何を読み取ることができるのか。現在という時代や、その社会の価値観も、時を経れば相対化されていくもの。そうした連続性のなかで過去を見るためのヒントを現代の作品に探れないかと思って、みなさんに声をかけました」
対する黒田さんは、広島市立大学で彫刻を学び、近年は、近代の彫刻家について詳細な調査を行い、その彫刻家を自ら演じるという特異な活動を展開している。広島現美とは本展の出品作に連なるプロジェクトで以前より協働しており、2022年の「どこかで?ゲンビ and DOMANI『村上友重+黒田大スケ』」展では、広島市街地に点在する彫刻群に関する作品を発表した。
そんな黒田さんは、本展のテーマや現代作家について次のように語る。
黒田「松岡さんも話されていましたが、いまは何か出来事があると、単純な善悪の二項対立になりがちだと思います。実際、アーティストのなかにも何かにアゲインストする表現をされる方もいて、それもアートのひとつのあり方ですが、他方でその認知の限界からこぼれてしまうものや、微妙な中間点にあるような問題もある。松岡さんとはそうした視点の大切さを共有していると思いますし、今回、出品する現代作家の姿勢にもそれを感じます。
また、松岡さんの手がける展覧会はこれまでも、美術をその外側からとらえ直して拡張したり、べつの見方を提供したりするものが多かった。今回も屋外のモニュメントなどを扱うことを通して、美術館という制度そのものを見つめ直す内容になっていると思います」
展覧会は全4章で構成される。「残す、忘れる、思い出す」と題されたその第1章では、ものを通して何かを記憶することの複雑さがさっそく多角的に検討されている。
この空間の主役のひとりは、日露戦争で活躍した軍人であり、内閣総理大臣も務めた加藤友三郎(1861〜1923)だ。入口に掲げられた大きなバナーの表面には、そんな加藤の海軍時代の正装姿を表した巨大な彫像の写真が、裏面には空の台座の写真がプリントされている。この彫像は広島現美のある比治山に1935年に置かれた《加藤友三郎元帥銅像》で、裏面は戦中の金属供出により1943年に像が撤去されたあと、いまも残るその台座を写したものだ。
この加藤の像をめぐっては、21世紀に入って再建を望む声が高まり、2008年に市内の中央公園に、2020年には呉市に新たな像が置かれた。ただし、前者は加藤が重要な役割を果たしたとされるワシントン軍縮会議(1921〜22)の際の、すなわち平和に貢献した姿として、後者は海軍の施設である呉鎮守府の司令長官の姿として彫られている。
松岡「過去との向き合い方をテーマにした展示をするうえで、自分たちの話から始めなければいけないと思いました。じつはこの比治山は、陸軍墓地や慰霊碑、放射線影響研究所といった、戦争や原爆の記憶と結びついた場所でもあります。他方、行政はここを「平和の丘」と呼び、美術館もそのイメージ形成の一端を担っている。加藤の像も、それが無くなり彼の存在が忘れられるいっぽうで、様々な人がそれぞれの思惑で再建を目指す対象となってきました。人はどのように何かを忘れ、あるいは思い出したいのか。複数の加藤像は、そうした欲望を感じられる面白い事例だと思います」
この比治山の加藤像は、その作者、彫刻家の上田直次(1880〜1953)に意識を向けることで、また異なる側面を見せる。上田はこの軍人像を手がける前、自ら「平和の象徴」と呼んでいた山羊の彫刻で知られていた。会場では、そんなひとりの人物が手がけた、タイプの違う作品たちが紹介されている。
黒田「上田は学校ではなく在野で彫刻を学んだ人で、認められるのも比較的遅いなど、決してエリートではない彫刻家でした。広島出身の彫刻家はほかにもいるのに、なぜ彼が加藤像を制作することになったのか。じつは、広島藩の藩主家であった浅野家の人々や、広島の有力者たちからの後援を受けており、彼らが加藤像の制作を依頼したのです。完成した像は大変な力作で、上田も名誉な仕事だと考えていたと思いますが、他方で断れない仕事だったことは事実でしょう。山羊を通して平和と愛を表現していた彼がどんな思いでこの像を作り、その撤去を見ていたのだろうと、想像させられます」
モニュメントをめぐる制作者の複雑な心情は、同じ章にあるイサム・ノグチ(1904〜88)の《広島の原爆死没者慰霊碑》(1/5模型)(1952/1991)にも見られる。現在の平和記念公園に計画されたものだが、この慰霊碑をめぐっては、当初、公園を設計した建築家の丹下健三が出した案がデザインなどの問題で断念。その後、依頼を受けたノグチが家形の埴輪の形を取り入れた上記案を出すも実現せず、最終的にふたたび丹下がノグチ案も取り入れて、現在の形に収めた経緯が知られている。
黒田「ノグチにとってこの慰霊碑は、彫刻家としての重要なキャリアであるとともに、日系アメリカ人としての揺れるアイデンティティに関わる仕事でもあったと思います。彼は父のいる日本で認められる仕事をしたかった。それは、彼が西洋化された日本の近代美術には関心を示さず、埴輪など近代以前のモチーフに興味を抱いたことにも見てとれます」
ノグチ案が却下された理由は、表向きはその造形の抽象性だとされているが、彼の国籍が理由だったとも言われる。ここに、設置される社会との関係性という、通常の彫刻とは異なるモニュメント特有の条件も感じられる。この却下を受けた丹下は、再度自身で周囲の街並みを巻き込み、モニュメントの奥に原爆ドームを望める現在の案を作ったが、これについて松岡さんは次のように述べる。
松岡「後世の人々のあいだでは、ノグチ案が実現しなかったことを惜しむ声も多いですが、今回展示してみて、果たしてそうか?とも思いました。もしノグチの案がそのまま置かれていたら、その先にある原爆ドームの存在感はいまとはだいぶ変わっていたはず。実際、原爆ドームの保存が決定するのは1966年のことで、それまでは残すべきかどうか、意見が割れていたのです。巨大な何かを建てるのではなく、空間に秩序を与えて周囲のものの価値を引き上げた丹下案は、戦後の民主主義社会にもあっていました」
第1章の部屋ではそんな丹下のプランに倣うように、加藤像のバナーや、ノグチの慰霊碑の模型、黒田さんによる自由の女神像《自由と陽炎のお面》(2025)や、映像作品が1本の軸線上に置かれている。この自由の女神像は、戦後、広島城の跡地に平和の象徴として自由の女神像を建てるという、実在した計画に基づいたものだ。黒田さんによれば、東京の浜離宮にも女神像と同サイズの巨大なマッカーサー像を建てる計画があったという。
黒田「どちらもノグチの案と同様、実現しませんでしたが、こうした一連の計画からは、戦後の到来と同時に『アメリカ』が日本社会の土台を成していく様子を感じられます。根本的な反省や検証がなく、土台が置き換わっただけという意味で、戦前と戦後の社会はそれほど変わらない。広島に自由の女神を建てるなんて突拍子なく思えますが、人は状況によってそういうことをする。ここからは、自分は正常だと思い続けることの怖さと、それを疑う想像力の重要性が学べます」
状況や対象への想像力を持ち続ける態度は、黒田さんの制作を貫くものでもある。会場にはこうした広島をめぐる計画に関して、黒田さんがノグチや北村西望ら彫刻家に扮して議論する映像や、上田の独白を演じる映像が流れている。それぞれの彫刻家は関係する生き物として描かれおり、発言内容は丹念なリサーチに基づくものの、パフォーマンスは即興で行われるため、言い間違いや言い淀みが起きたり、彫刻家と黒田さんの考えの境界が曖昧になり、混在して現れたりする場合もある。
黒田さんがこうした彫刻家を演じる制作を始めたのは2020年のこと。もともと博士課程まで彫刻教育を受けた黒田さんだが、彫刻を作ること自体に懐疑的だった。自分に染みつく近代彫刻の技術や価値観、その歴史的な検証への不足に違和感を覚えていたのだ。そんななか、2017年に韓国・仁川の自由公園にあるマッカーサー像を見て、その作者の金景承が1930年代に留学先の東京美術学校彫刻科で学んでいたことを知る。日本が帝国主義的な支配を拡大していった時代に学んだ彫刻家が生み出したこのマッカーサー像と、自分が受けた彫刻教育とは同じ線の上にある。そう気づいた黒田さんは、かつて日本の植民地だった東アジア各地への取材を重ね、そこにある教育の連鎖や似た問題意識、歴史化されていない彫刻家個人の思いに目を向けていくことになる。
黒田「自分が学んだものが、権力者や偉人、政治家や軍人を格好良く作る技術だと知るなかで、彫刻がより嫌いになっていきました。けれど過去の彫刻家を調べると、たとえば上田のように、個人のなかには人間的な葛藤があることが見えてきました。戦中の彫刻家は9割以上が戦争に関わっています。自分もその時代を生きていたら、無関係でいたかわからない。だから、過去を断罪するのではなく、たんに共感するのでもなく、違ったアプローチが必要だと考えるようになったのです」
パフォーマンスを即興で行うことには、誰かを演じることを通して、自身のなかに染みついたものや考え方を取り出したいという思いもあるという。そのためか、「演じたあとにはちょっとだけすっきりするような、癒されたような感覚がある」と黒田さんは話す。
現在の視点からは理解し難かったり、長い時間を経たことで接点が見出し難くなった対象に対して、私たちはどのようにアプローチすることができるのか。そこに関わる個人の内面を丁寧にひもとき、それを通して自分の内側も見つめる黒田さんの方法論は、そのひとつのあり方を教えてくれる。
本記事では黒田さんの作品が置かれた第1章の内容をクローズアップして紹介したが、展覧会はその後も、第2章「過去に触れる」、第3章「こちら側 / あちら側」、第4章「誰が、どうやって、記憶を担うか」と、章を超えてテーマを緩やかに共有しながら続いていく。
そこでひとつのポイントとなっているのが、広島現美が収集のために自らアーティストに制作を依頼した作品群だ。同館はその収集方針のひとつに「ヒロシマと現代美術の関連を示す作品」を掲げており、その方針のもとテーマ「ヒロシマ」による作品の制作委託により、128作家の130作品を収蔵してきた。ただ、1989年の開館前に集中的に行われた依頼では国内作家以外はイギリス、アメリカ、韓国の作家という偏りが見られたが、被爆50年の1995年に実施された依頼では、よりバラエティに富んだアジアの国々の作り手へ依頼しているなど、その対象は変化している。こうした変遷自体に、「被爆」や「戦争」への視線の変化、ものを通して歴史を形成していく「ミュージアム」という装置の逡巡が滲んでいる。
また、本展では、過去に同館で起きた軋轢も紹介されている。それは、ヘンリー・ムーアによる《アトム・ピース》(1964〜65)をめぐるものだ。
同作は、かつて広島現美のエントランスに常設設置されていたが、核分裂の実験の地であったシカゴ大学により巨大な同型のモニュメント《ニュークリア・エナジー》が設置されていることが広島市議会で問題視され、撤去に追い込まれた。広島では反核の象徴として謳われたものが、じつは原爆を賛美する作品だったのではないか、とみなされたのだ。
しかし実際には、シカゴ大学はムーアが平和を重視するアーティストであることを念頭に依頼を行っていた。大学側が彼に当てた手紙にも、「大いなる希望と深い恐怖の可能性を秘めている人間の偉大な功績に対する記念碑となることを期待している」と、科学技術の持つ光と闇の両面を意識した作品を求める旨が語られている。だが、こうした事実と芸術の複雑さを訴える声は議会に届くことはなかった。この出来事は、多様な解釈に開かれた芸術作品が持つ一種の抽象性ゆえの帰結として、興味深い視点を提供している。
現代のアーティストの作品は、こうしたコレクション群に挟まれ、それらと互いの見え方に影響を与えるような構図で展示されている。このような新旧の作品同士の絡まり合いや相補的な関係性も、本展の重要なポイントだ。
サハリンやソウルにある石碑や彫像を訪ねて自作に取り込む毒山、日米双方の視点から核をめぐる物語を絵画化した蔦谷、長崎出身の祖父を持つニュージーランドの落語家の身体を通して過去と現在をつなぐアムンゼンなど、各作家の作品は隣接する過去の作品と有機的な関係を結び、新しい文脈を生み出している。こうした作家たちの作品に対して、松岡さんは、「ひとつの意味に回収されず、複数の解釈や意味に開かれていること。そうした芸術鑑賞の持っている喜びや楽しみを、過去を振り返ることのなかに織り込んでいる作品を選びました」と話す。
過去や出来事と向き合う視線を複数化させることの重要性という意味で、本展が小森はるか+瀬尾夏美によるプロジェクトの展示で幕を閉じているのは象徴的だ。
ふたりは、様々な世代の人々に自身が11歳だった頃の記憶についてインタビューをして記録する「11歳だったわたしは」というプロジェクトを行なっている。この試みは当初、小森と瀬尾が宮城県で開始し、その後、参加型のプロジェクトとなって、2023年からは広島でも実施されてきた。参加者はインタビュー相手の話を聞き、それを聞き書きの形式で文章にする。集まった個々の声は、大きな歴史の下に潜む小さな物語を浮かび上がらせる。同時に、記憶を他者に委ねるという点で、これは当事者性をめぐる取り組みでもある。
松岡「被爆80年を迎え、戦争体験者の声が聞けなくなるなか、記憶の当事者とは誰なのかと問いかけてくる活動ですよね。翻って、ここから言えるのは、彫刻家を引き受ける黒田さんのパフォーマンスにも通じますが、過去の記録があり、それを各時代の人が再生したり再編したりして、意味を更新しながら進むのが『歴史』であるということだと思います。
そして美術館とは元来、それを可能にするインフラなのではないでしょうか。つまり、社会の価値観は時代ごとに変わるけれど、その揺れに左右されすぎることなく、解釈の対象である物体を残し、未来に届ける役割が美術館にはある。そのことも、展示を通してお伝えできたらと思いました」
ものを残すことは、ある出来事の固定化ではなく、むしろ未来の語りの複数化につながっている。そのことは、この展示会場で新旧の作品が見せている有機的な関係性、そしてそこに現れる豊かな意味の揺れからも感じ取ることができる。
世界では、冒頭でふれた彫像の撤去のように、過去への視線がときに先鋭化している。いっぽうで、パレスチナ自治区ガザに自らの黄金の像が立つAI動画をSNSへ投稿したアメリカのトランプ大統領のように、わかりやすい権威の表象への欲望が高まっているようにも感じられる。こうした時代にアーティストに求められることとは何か? 最後に黒田さんに聞いた。
黒田「彫像のようなものを『建てること』と、それを『倒すこと』は、じつは似たようなことだと思うんです。でも、何か社会的な記憶に関わる機会であっても、そうした単純な方法ではないかたちで、その形成に関わることもできる。アーティストにはそうした記憶の残し方のアイデアや発明、ビジョンを提示することがいちばん求められていると思います」
杉原環樹
杉原環樹