日比野克彦 会場にて
ダンボールを使ったイラストレーション作品で一躍注目を集めた1980年代のデビュー以降、アートと社会をつなぐ活動を30年以上にわたり展開してきた日比野克彦。その軌跡を辿る回顧展「日比野克彦 ひとり橋の上に立ってから、だれかと舟で繰り出すまで」が、茨城県の水戸芸術館 現代美術ギャラリーにて7月19日に開幕した。会期は10月5日まで。企画は竹久侑(水戸芸術館 現代美術センター芸術監督)。
本展のタイトルにある「橋」や「舟」といったモチーフは、日比野の創作を貫くテーマ——すなわち「だれか」とのつながりへの希求を象徴している。子供のころ、予期せず一人きりになった体験から「ひとり」という感覚をはじめて意識したという日比野は、後に「誰かと会いたいからこそ絵を描くようになった」と語る。本展ではその原点から、地域と協働するアートプロジェクトまで、日比野の芸術実践を60年超のスパンで一望する。
また本展がユニークなのは、「手つき」と「振る舞い」という切り口からその芸術実践を見ていくという点だ。ここでは、プレビューでの作家の言葉とともに、展覧会を順を追って見ていこう。
会場に入るとまず目に飛び込んでくるのは、大きな和紙に墨で書いた《わたしが絵を描くわけ》という文章だ。そこに記されているのは、0歳の頃の記憶。赤ちゃんの手がムズムズと動き出し、そんな感覚を発散しようとした先に描くという行為があった。そんな日比野の原点の物語だ。
最初の展示室には、のちのアーティスト・日比野を形成したと考えられる幼少期のエピソードや、大学時代の作品が並び、1980年代のダンボール作品が続く。
日比野は1958年岐阜市生まれ。1980年代前半、東京藝術大学大学院美術研究科修士課程デザイン専攻に在籍していたときに、ダンボールを素材に制作した作品で注目を集め、1982年に日本グラフィック展大賞受賞。広告やファッション業界からも多くの仕事が舞い込む時代の寵児となった。
絵を描くための真っ白い紙を前にすると、自分の中の時間が止まってしまい、イメージが動かなくなる。でも、本来、絵を描くための紙ではない段ボールには、時間の流れや風化を感じることができた。
(『KATSUHIKO HIBINO』小学館、1993、p.115』/会場に掲示されたパネルに掲載)
《オートバイ》(1984)をはじめとする作品の視覚的・触覚的な魅力には、日比野の表現の核心が現れている。
また本展では、作家の母・日比野見音との関係性に着目した展示も印象的であった。会場の一角には、日比野が小学生の頃に描いた油絵や版画、当時の学校のテストとともに、母が保管してきた日比野作品が並ぶ。注目すべきは、それらの作品に母・見音の手が加わっている点だ。
日比野が東京で制作した作品の数々は、実家の倉庫で母によって長年保管されてきたが、見音はそのなかから気に入ったもの選び、いつの間にか屏風に仕立てたり、額装して飾ったり、Tシャツをクッションにリメイクしたりしていたという。「まさかお袋が作ったクッションが展覧会に並ぶのか」と作家は笑いながら語っていたが、“お母さんキュレーション”(竹久)までを取り込んだ、思いがけない展示だ。
母の行為は、日比野の芸術実践における「だれか」との関係性、そして他者との共創という姿勢とも重なって見える。もともと芸術に深い関心を持っていたという母が、息子をアーティストとしてまなざす視線にほっこりしつつ、誰かとともにあることについて思いを巡らせたくなる。
また、日比野が小道具を手がけ、出演もしたロックミュージカル「時代はサーカスの象にのって '84」は、この後の作家活動の変化に大きな影響を与えたひとつの契機だという。劇場で自らの身体を使い、鑑賞者とダイレクトに時間を共有したという経験は、作品だけ並べば自分自身は不要という美術館やギャラリーでの展示とは違った感覚をもたらした。この経験から「身体や時間を意識するようになった」と日比野は語る。
日比野の多くの作品には手書き文字が含まれている。字を書くことと、線を描くことが同義としてあるその作家性に迫るのが第2章だ。ここでは、全8ページを手書きで描いた岐阜新聞110周年記念特集や、「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2003」をきっかけに誕生した「明後日新聞社文化事業部」といった実践などを紹介。
また日比野は1980年代後半、線をめぐる手つきの探求を行なっていた。たとえば、慣れた筆ではない工具を用いて線を生み出したり、利き手でないほうの手を含む両手で線を描いてみたりといった試みを通して、自らに制約を課し、意図を超えたところで線を生み出す方法を探っている。
こうした実践は第3章へもつながっていく。《π=CRTdrawing LAND→SEA》(2011)と《π=CRTdrawing SEA→LAND》(2011)は、三宅島の遠浅の海岸を舞台に、前者は陸から海へ、後者は海から陸へ、それぞれ100mのロール紙を広げて描いた作品。水中ではウエットスーツを着てタンクを背負い、水の浮力に左右されながら、決して思い通りにならない環境下に自らを置いて描いた。高い天井から作品を吊った展示は圧巻だ。
移動中や制限された環境下で描かれたスケッチ群も印象的だ。《キロポスト》(1990)ではシベリア鉄道に乗車中、窓の外に見える風景を素描した100点からなるシリーズ。新幹線ほど早くはないけれど、しっかり対象を目でとらえて描くには速すぎる速度で進む鉄道の車窓で、それでもイメージの断片を掴もうと次々と生み出された線たち。
「絵を描くのは人に会いたいから」——そんな日比野の言葉は、多岐にわたる活動を貫くものだ。1995年以降は東京藝術大学で教鞭を執るかたわら、地域や行政、企業と連携した多数のプロジェクトも展開してきた。
こうした活動に先駆ける1988年、ミキハウス企画のもと日比野が手がけた子供向け絵本『えのほん』は、作者である日比野と読者である子供たちの「共作」によって成立する作品だ。日比野が描いた350点のドローイングを収めた本書には、保護者に対して「えのほんに落書きをしようとしても止めないでください」と書いた「まえがき」と、作者名として自身の名前と共に、持ち主の子供の名前を書く欄を並べた「あとがき」が添えられている。
「遊び道具としての本にしたいと思いました。子供が出かけるときにぬいぐるみのように持ち出したり、描き込んだりできる。そうした遊びを促すためのドローイングだけを描きました」と、日比野は当時の意図を振り返る。展示室の壁には、ドローイングの原画が展示され、その下には、実際に子供たちが遊び、描き込みがされた本たちが「子供の名前×日比野克彦」という連名表記で展示されている。竹久らが集めたというこれらの本を前に、「88年に投げた宿題が返ってきた感じ」と日比野。
また、日比野にとって重要な「橋」を主題にした作品群も本展のハイライトだ。《私が初めて立ち止まったのは萱場の橋の上でした》という作品は、当時5歳だった日比野が、うっかり行き先を間違えてしまい、ひとりぼっちになってしまったときのエピソードがもとになっている。「泣きたかったけれど、泣いてもしょうがないと思って泣かなかった。そんな自分を意識した」(日比野)。本展のタイトルになっている通り、この経験がアーティストとしての原点になっているという。
「一人では何も出来ず」という前提で生きていくために、
一人ではないというような状況を企てる。
もしくは企てられた場所に身を委ねる。(略)
美術はそんな手段に使われていけばいいのだと私は思う。
美術は「一人じゃない」を伝えてくれる知恵なのだと私は思う。
(『日比野克彦 HIGO BY HIBINO』熊本市現代美術館、2008、p.5, 7/会場に掲示されたパネルに掲載)
一人じゃない。——そんなメッセージを体現する、本展のための特別な年譜が展示されるのが第5章。日比野の活動を時系列で俯瞰する年譜には、本人による手書きコメントとともに、関係者の目線で日比野の活動を紹介する内容がてんこ盛りだ。
たとえば日比野の代表的なアートプロジェクトである新潟・莇平での「明後日朝顔プロジェクト」と、岐阜・ 長良川での「こよみのよぶね」を、絵本作家でイラストレーターの大橋慶子が絵本化。また、約20年の関わりがある岐阜県美術館と熊本市現代美術館での日比野にまつわる特徴的な出来事を、マンガ家・宇佐江みつこがマンガでユーモラスに紹介する。
年譜にはニューヨークでバスキアやキース・ヘリングと出会ったときのことなど、面白いエピソードがたくさんあり、じっくり読みたくなる。
最後の章では、「障害の有無、世代、性、国籍、住環境などの背景や習慣の違いを超えた多様な人々の出会いによる相互作用を、表現として生み出すアートプロジェクト」である「TURN」の、コロナ禍以降の展開を紹介。パンデミック下のステイホーム期間に、あらためてひとりで向き合った絵が展示されている。
展示室の外には、日比野のアトリエを再現した空間が登場。また美術館の広場やエントランスホールにも作品が設置され、来館者が自由に見ることができる。
本展は、膨大な作品を並べる個展の枠を超え、アーティスト・日比野克彦の「ふるまい」や「手つき」を、周囲の人々の手やまなざしを通して浮かび上がらせる意欲的な構成となっていた。ダンボールによる初期作品、全国各地でのアートプロジェクト、大学長や館長としての活動と、幅広い実践のなかで明らかになるのは、つねに変化し続けながらも、「つながり」を求めるという一貫した姿勢だ。そのアートの実践は、苛烈なまでに「分断」が煽られる現代にあって、観る者を勇気づけるのではないだろうか。
福島夏子(編集部)
福島夏子(編集部)