マヤ・エリン・マスダ 撮影:板倉勇人(YCAM) 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]
山口情報芸術センター[YCAM]で、ベルリンを拠点に活動するアーティストのマヤ・エリン・マスダの個展「scopic measure #17:マヤ・エリン・マスダ Ecologies of Closeness 痛みが他者でなくなるとき」が開催されている。会期は11月2日まで(入場無料)。
「クィア・エコロジー」という視点から、国家が生命や出生を管理する「生政治」とテクノロジーの関係を探求する本展は、生殖、家族・親族、原発事故、環境問題といった多くの人にとって他人事ではない事柄に迫るもの。作品のヴィジュアルやサウンドによって美しさや心地よさを感じられる空間でありながら、グロテスクな毒性も同居する、複層的で充実した展覧会を作り出した気鋭のアーティストに、話を聞いた。【Tokyo Art Beat】
——展覧会、素晴らしかったです。中央に設置されたインスタレーションからチューブが会場内を巡り、それらを囲むように2作の映像作品が向き合っている構成で、物理的にも、テーマ的にも、3作がつながり合い循環する構成になっていました。
まずは、マヤさんの作品を貫く視点である「クィア・エコロジー」についてご説明いただけますか?
マスダ ありがとうございます。クィア・エコロジーというのは非常に広範な領域を扱うもので、一言で説明するのは難しいんですけれど、基本的には性やジェンダーの多様性と自然環境との関係を新たな視点でとらえ直す思想や実践を指します。たとえば、異性愛規範に基づいた男/女という性別の二元論や、人間/自然という二項対立が、従来の「自然」や「生態系」という概念を形成していることを批判し、より流動的で両能的な関係のあり方を提示するものです。
クィア・エコロジーの理論では、「人工」と「自然」の境界を明確にはわけられず、そこに発生する両義的なもつれ(エンタングルメント)を重要視します。それは、性のあり方にスペクトラムがあり、男性と女性とで完全にはわけられないことと同様です。
ですが、私が依拠する「クィア・エコロジー」のもうひとつの側面は、むしろ抑圧の手法の転用という側面にあります。私自身がクィア・エコロジーについてリサーチを深めたきっかけのひとつに、環境保護団体「ジャスト・ストップ・オイル(Just Stop Oil)」のメンバーに取材をしたことがあります。ジャスト・ストップ・オイルが抗議活動として絵画を攻撃したことに関して、Tokyo Art Beatに寄稿をするうえで、美術分野にいる私がその行動を一方的に語ることにためらいがありました。そこで、当時はロンドンを拠点にしていたので、実際にアクティビストの方々に会いに行って、話を聞いたり、活動を見たりしたんですね。
そのとき驚いたのが、メンバーには私と同世代の若いクィアの人たちが多かったことです。彼女・彼らがなぜ環境問題に深く関わっているのか、とても気になりました。
最初は、動物に対する「かわいそう」という共感が動機なのかと思っていたんですが、そうではありませんでした。彼らの関心の背景には、クィアの人々の歴史、たとえばストーンウォールの反乱やエイズ危機といった、迫害の歴史が大きく影響していることがわかりました。
かつて女性やクィアな身体は「汚れたもの」や「人間以下の存在」として扱われてきました。たとえばイギリスには19世紀末から20世紀初頭にかけて女性の参政権を求めて活動したサフラジェットたちがいました。彼女たちが投獄されたとき、ハンガーストライキをしたのですが、当局は家畜に栄養を与えるのと同じように、彼女たちの喉にチューブを突っ込み、強制的に流動食を流し込みました。
このように、人間が動物を支配するために使っていた方法は、人間以下と見做された人間へと簡単に転用されてしまう。より高度なテクノロジーも同様です。クィアの人々がその構造に対して敏感でなければ生き延びられなかったことが、環境運動への関与にもつながっているのだと気づいたんです。
私自身もクィアとして、いつ自分が人間以下の存在として扱われるかわからないという危機感を持っています。ですから、「抑圧される身体」として、さまざまな存在と連帯し、抑圧の倫理を注視する必要がある。クィア・エコロジーにおいては、そういった特有の感受性が、大切な出発点になっているんです。
——では、作品についておうかがいします。まずはインスタレーション作品《Pour Your Body Out》について教えてください。木製の構造体を中心にチューブが張り巡らされ、そこを白い液体が循環し、たくさんの牛の乳房のようなものから放出されてプールに滴り落ちている。ほかにもいろんな素材が組み込まれていますが、制作の経緯は?
マスダ チェルノブイリや福島などでの原発事故や核にまつわる問題を出発点に、そこから派生する複数のイシューを扱った作品です。
白い液体は粉ミルクを溶かした人工乳ですが、これを作るきっかけとなったのが、チェルノブイリでの出来事でした。原発事故のあと、たくさんの女性たちが非公式な場で、医師や地域の男性たちから「子供を産むべきではない」「妊娠しているなら中絶すべきだ」といった言葉を投げかけられ、中絶を強くすすめられたという証言が、事故から20〜30年経った近年になってようやく報告書に記録され始めたんです。
そこから、私は原発事故が個々の身体に、とくに女性のリプロダクティブ・ライツ(生殖に関する権利)や身体の自己決定にどう関わってくるか、という点に関心を持つようになりました。つまり、科学技術が引き起こした事故が、「誰が子供を産むべきか」「誰が命をつなぐべきか」といった極めてプライベートな領域にまで踏み込んでくる、その構造への関心です。
日本でも少子化対策と称して、女性に子供を産ませようとする圧力が強く働いていますが、いっぽうで万が一事故になったら生殖機能に影響を与える可能性の高い原発を保持し続けています。そうした矛盾も本作の動機になりました。
それに加えて、放射能や化学物質が目に見えないものであり、直接的に見てわかるような暴力とは違う仕方で人体に作用することも気になりました。たとえば呼吸のような、日常的で見過ごされがちな行為を通じて、時間をかけて身体の中に毒性が染み込んでいき、10年後、20年後に体の内側から変容させられてしまう。そうした“遅延性”のある毒性というものに、私は深い関心を抱いています。
ですので、このインスタレーションの中では、化学薬品を含んだ黄色い水に活けた花が時間の経過とともに徐々に色を変えていくとか、循環する水が徐々に腐っていくとか、時間に伴う変化も含んでいます。
——本作にはマヤさんが作った人工皮膚も組み込まれていますね。材料にタピオカ粉などが使われているというのが意外で、ちょっと面白いなと思いました。
マスダ 民間療法で使われていた人工皮膚のレシピに基づいています。やけどの傷をやさしく覆うために、化学物質を使わず、タピオカ粉、グリセリン、酢、水などを混ぜて作られていたものがあって、それが「第二の皮膚」としての役割を果たしていたんですね。
最近ではそれが応用されて、よりサステナブルな文脈で「バイオ皮膚」としても活用され始めています。また、私は公害などにさらされた動物の皮膚異常についても興味を持ってリサーチをしてきました。そうしたことから着想を得て、人工皮膚を作ることで地球という惑星の「痛み」を視覚化できないかと思ったんです。
——新作映像も《皮膚の中の惑星/ All Small Fragments of You》というタイトルですね。本作は、美術史からのイメージやフェミニズムやクィア理論からの引用なども交えながら、マヤさんとパートナーとの関係性を題材に、クィアの視点から家族・親族についてのとてもパーソナルな語りが行われていて、胸に迫りました。
マスダ 一般的に「家族」というと、それはDNAを受け継ぐ、親から子への継承が想定されます。しかし私が考えたいのは、そのような縦に連なる血縁関係としての親族ではなく、横に広がる親族性——水平なキンシップ(親族関係)のあり方、関係の編み方です。
私とパートナーはレズビアンで、将来的に子供を持つかもしれないという話になったとき、「誰が産むのか?」とか、「もし彼女が出産し、私とは法的な・血縁的なつながりのない子が生まれた場合に、どのようにして関係性を築きうるのか?」」といった問題が浮かんできます。養子を迎えた場合には、ふたりともその子と血縁関係がないということになりますよね。だから私は、人間がどのようなつながりを「親族性」として選び取るのか、どのようにケアの共同体が形成され、何がそこから排除されるのかという問いに強い関心があります。
《皮膚の中の惑星/ All Small Fragments of You》というタイトルにもありますが、私が目指しているのは、皮膚という他者との接触面や、皮膚のなかにある分子のような微細なものの共有を通して、惑星的なスケールで親族性や連帯を考えることです。そこでは、親密さだけでなく、暴力や加害の歴史も引き受けなければいけません。人間が人間以外の生物に対して行ってきた搾取や支配も含めて、親密さや関係性を考え直す必要があります。
カナダのクィア・エコロジーの理論家であるヘザー・デイヴィスは、現在の気候変動への対策や環境保護運動は、「人間のせいで地球が壊れたから、元に戻そう」という考えに基づいているとして批判しています。彼女はそれを「回帰主義的な人間中心主義」だと指摘します。いくら人間が努力をしても、生まれてしまった毒性を元に戻すことはできない。同時に、人間はほかの動物と同じく地球の一部にすぎないのに、あたかも地球の管理者のように振る舞うこと自体が問題なのだと。
また環境哲学者のティモシー・モートンも、「ハンバーガーを食べながら環境について考えることはできる」と言っています。「プラスチックを完全に排除すべき」「肉を食べるのは絶対に悪」といった白黒はっきりさせた思考そのものが、また別の暴力や虚構に結びついてしまうことがあるということです。
私もこうした考えに共感しますし、私たちは矛盾のなかに生きています。クィア・エコロジーという思想の核心は、すでに汚染されているこの惑星と、いま/ここで我々がどのような新しい倫理を築き、新たなケアの関係を結ぶことができるのかを考える態度にあるのだと思います。
——矛盾という点では、本作には薬や化学物質が象徴的に登場しますね。マヤさんのパートナーが、女性というジェンダー規範から逃れた身体になるために、ホルモン剤や生理を止めるための薬を服用するシーンがありましたが、薬は毒にもなりえます。
マスダ 彼女にとって薬を飲んで自分の身体を変えていく、自分の望む身体を選び取っていくという行為は、解放であり、自分らしく生きる権利を得るためのプロセスなんです。いっぽうで、クィアをはじめとする周縁化された存在は、経済的に困窮し、汚染度の高い環境の中に追いやられる──自分の望む以上の化学物質にさらされているとも言えます。でも私たちはもはや、水や電気と同じように化学物質がなくては生きていけない、ケミカル・インフラストラクチャーと呼ばれるような状況が広がった、傷ついた惑星の上で生きています。そうした環境的な毒性を共有することから、自分たちの関係性をとらえ直せないか、と考えました。
ケミカルなものと同様に、コミュニケーションにも毒性はあります。「痛みが他者でなくなるとき」という展覧会のサブタイトルでは、惑星的な痛みが、人間と人間以外の他者がが切り離せないほど接続している状態の証言者となることを示唆したかった。親密さがたんに優しさや癒しを与えるものではなく、痛みや毒とも分かち難く結びついているという、そのグロテスクさも感じてほしいと思いました。
——《証言者たち/Plastic Ocean》は複数のイメージが重なり合い抽象的な像を結ぶ映像作品ですが、福島第一原子力発電所の隣にあったヒラメの養殖場で撮影した映像が使われているそうですね。
マスダ その養殖所では、福島第一原子力発電所から排出された熱を利用して海水を温め、そのなかでヒラメを育てていました。東日本大震災が起きてからは使用されなくなり、現在は倒壊した水槽だけが残っています。養殖所については、経済産業省にお勤めの方を通じてこの地域のフィールドワークを行った際に初めて知りました。
この熱の循環を使ったシステムは、人間とそれ以外の生物のあいだの支配関係を象徴しているように感じました。エネルギーの再利用という面では有益にも思えますが、「人間が生み出した熱がなければ生きられない身体」として飼われている存在がいることに、やはりグロテスクさを感じます。
——そうした両義性は、展覧会全体に通底するテーマのひとつですね。映像は説明的ではなく、ぱっと見では被写体や状況が判別できませんが、その意図は?
マスダ たんなる記録やドキュメンタリーとしてではなく、もっと違う表現を目指したいと考えました。プラスチックチューブ、錆びた鉄、コンクリートの残骸といった物質の肌理を、極端に近い距離からYCAMのスタッフに撮影してもらいました。それと、身体を映した映像とを重ねることで、物質同士が混ざり合う映像にしたかったんです。毒性や親密さを、触覚に訴えかけるかたちで表現したいという意図がありました。
ポルノグラフィをフェミニズムやクィアの視点からオルタナティブに再検討するうえで、ローラ・マーカスという人が「ハプティック・ビジュアリティ(視覚的触覚性)」という概念を使いました。たとえばメイル・ゲイズ(男性のまなざし)による一般的な視覚重視のポルノグラフィでは、カメラを身体から離れた場所に置いて性行為の様子や身体部位を客観的・説明的に映し出すのに対し、フェミニストやレズビアンが制作するオルタナティブ・ポルノグラフィでは、カメラを極端に身体に近づけ、何が映っているかよく見えない代わりに、触覚的で官能的な映像を生み出します。前者にある「見る/見られる」「支配/被支配」という構図を、戦略的に壊していく手法です。自分が何を見ているのか、誰の視点に立っているのかがわからなくなる。その曖昧さ、混在性、揺らぎのスペクトラムのなかにあるような映像を、今回の作品でも意識しました。
皮膚に対する関心は、やはり私自身がクィアであることとも深く関係しています。たとえば、ヘテロセクシュアルな関係性のなかでは、性愛や性欲がどうしても性器中心に語られがちだと思うんです。でも、レスビアンの関係性では、あらゆるタッチが性的な感情に結びつき得るし、親密さの表現にもなり得る。
それに皮膚は、外部との接点であると同時に、体の内部の免疫とか、精神的な不安定さとかも表面に表れてくる、主観的なキャンバスでもある。外側と内側が出会う場所であり、複層的であり、インターセクショナリティという観点とも結びつきます。
——両義性を見ることや、白黒つかない場で留まりながら考える姿勢は、人々の「分断」が進んでいると言われる現在においてとても重要だと思います。YCAMは展示が無料で市民向けのプログラムも充実していますし、クィアやフェミニズムに関するイシューについて、鑑賞者のなかで会話が生まれたら素晴らしいですね。
マスダ 今回の展示はYCAMの「scopic measure」という気鋭のアーティストを紹介するシリーズなのですが、歴代のなかで女性作家はすごく少ないんです。メディア・アートの美術館や施設で、フェミニズムやクィアが取り上げられる機会がほとんどないことは気がかりです。メディアというものがこれほど拡張したいま、私たちが扱っているテクノロジーががいまだに白人・男性中心主義的であり、分断や抑圧の手法として用いられてきた歴史の真摯な内省をしない限り、現代においてメディア・アーティストと名乗ることは難しいと感じます。
——そもそもマヤさんがアーティストになった経緯はどのようなものでしょうか。
マスダ 最初は工学系の勉強を志していました。数学が得意だったというのもありますし、当時はDIYカルチャーやハッカソンなど、「テクノロジーが社会を民主化する」という言説にすごく惹かれていて、それがとても素敵なことだと、純粋に思っていたんです。
慶應大学の工学系の学部で学び始めると、女性が自分ひとりというような授業がたくさんありました。同時に、プロパガンダや身体への抑圧、検閲のようなものにテクノロジーが深く関与しているということにも気づくようになりました。女性に限らず、人種や生物学的な特性をめぐる差別の問題にも、です。
当時からすでに電子工作やロボティクスの授業などでものを作っていましたが、そこで求められるのは「エラーを起こさないように制御する」「人間がケアをしなくてもよいように自律させる」プログラムで、それがすごく嫌だったんです。「モジュール化して無名化され、流通し、量産可能なもの」を作ること自体に違和感がありました。当時私が学んでいたテクノロジーの理想像は、人間の代わりに働く「奴隷」のような存在。人間がいなくても、ずっと稼働し続けるようなものでした。
私が作りたかったのは、もう少し脆弱で、ケアが必要なもの……つまり「庭」のような機械です。庭って、つねに手をかける必要があるし、ケアが必要で、人と自然環境とがお互いに関係性を築いて成立するものですよね。
そこで、テクノロジーの別の可能性を探る手段としてメディア・アートに興味を持ったんです。慶應大学を中退し、多摩美術大学に移ることにしました。
多摩美のメディア芸術コースには教授として久保田晃弘さんがいらっしゃって、『スペキュラティヴ・デザイン 問題解決から、問題提起へ。—未来を思索するためにデザインができること』という本の翻訳監修を手がけられていたんです。その本には数年前に出会っていて、そこに書かれていた「異なる未来像を想像するためのテクノロジーの使い方」にとても希望を感じたんですね。それで久保田さんにメールを送り、入試を経て多摩美に編入しました。
——2021年にマヤさんが共同編集長を務めるフェミニズム批評誌『i+med(i/e)a イメディア』が刊行されましたね。まだ若い学生がフェミニズム批評に特化した表象文化批評誌を出したことに驚き、頼もしさを感じたことを覚えています。この頃から、現在までの関心は一貫していますか?
マスダ テクノロジーと生殖の関わりへの関心は多摩美の頃からありました。ただ、クィア理論や環境問題に対する関心が強くなったのは、2021年にロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートで学ぶようになり、23年にベルリン芸術大学に入ってからです。日本では、自分がそれを話しても理解されないだろうなと思っていて、深くは触れられなかったんです。ベルリンではニナ・フィッシャーという教授のもと、クィア理論やエコロジカルな実践とテクノロジーの関わりについて研究ができているので、ありがたいです。
——ベルリンでの生活はいかがですか?
マスダ 正直、いまは少し厳しい状況です。昨年12月に大規模な国の文化政策における転換があり、文化・芸術・教育分野の予算が大幅に削減されました。私や友人たちの関わる研究グループも予算の60〜70%がカットされてしまったんです。
——それは大変ですね。
マスダ はい、でも同時にクィア・コミュニティはとても強くて、支え合いの文化がしっかりと根づいています。
——最近はパレスチナの問題もドイツ社会にとって大きな課題になっていますよね。アート界でも親パレスチナの態度を少しでも感じられると「反ユダヤ主義」のレッテルを貼られることがあると聞きましたが、マヤさんの活動にも影響はありますか?
マスダ はい、非常に大きいです。私は以前、パレスチナへの抑圧に反対するデモに参加した際に拘留され、その後当局から「次に何かあればビザを取り消します」といった内容の手紙が来ました。事実上の脅迫ですね。
ドイツには戦時中にナチスが行ったことへの反省から、「贖罪のナラティヴ」がとても強く根づいていて、イスラエルへの贖罪としてパレスチナへの不当な扱いを許容する姿勢が感じられます。
こうしたドイツ政府に対抗する動きとして、最近では「Strike Germany」というイギリス拠点の運動があり、パレスチナへの連帯表明を抑圧するドイツの文化機関をボイコットしようと呼びかけています。私の元チューターや、著名なアーティストたちも加わっています。文化機関での検閲や不当な扱いを可視化し、共有し、抵抗しようとしているんです。
——そのような動きがあるのですね。マヤさんは今後も日本に拠点を移す予定はありませんか?
マスダ いまのところはありません。9月からはオランダのアイントホーフェン工科大学の研究員になります。そこで「Materiality of Care(ケアのマテリアリティ/物質性のケア)」についての新しいリサーチグループに加わる予定です。
どこで生きていくかは、パートナーと私にとっては難しい問題です。クィアがヘテロセクシュアルな関係性の真似事をするべきとは思わず、男女一対一の関係以外にもむしろポリアモリーなど様々な関係性があってしかるべきだと思うので、国に私たちの関係性を認められることが必ずしも重要だとは思いません。ですが、日本で同性婚が認められていないということの現実は、パートナーのビザなど実際に私たちの生活に様々な制度的制約をもたらしています。そのあいだをかいくぐって生きている感じです。なので、ちょっと決断に時間がかかりそうだなと思っています。
——これからの活動にも期待しています。今日はありがとうございました。
マヤ・エリン・マスダ
アーティスト/リサーチャー。ベルリン・東京・ロンドンを拠点に活動。現在ドイツのベルリン芸術大学にてQueer Ecologyを研究。近年の個展に「Sleep, Lick, Leak, Deep….」(大和日英基金、イギリス、2024)。主な近年のグループ展に「INTERFACE」(Somers Gallery、イギリス、2024)、「More Strange Things」(Silent Green、ドイツ、2024年)、「ままならなさを生きるからだ Bodies / Multiplicitous」(クマ財団ギャラリー、東京、2023)、「Ground Zero」(京都芸術センター、2023)など。
福島夏子(編集部)
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