公開日:2025年8月4日

「大竹伸朗展 網膜」(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館)が開幕。300点超で迫る〈網膜〉の世界、30年の時を経た初公開作品も

11年ぶり復活の《網膜屋/記憶濾過小屋》から新作まで、大竹伸朗の創作の核心部分に迫る同館史上最大規模の展覧会。会期は8月1日〜11月24日

会場風景

12年ぶりの丸亀市猪熊弦一郎現代美術館での大規模個展

香川県の丸亀市猪熊弦一郎現代美術館で日本を代表する現代美術家・大竹伸朗の大規模個展「大竹伸朗展 網膜」が開催されている。会期は8月1日から11月24日まで。担当学芸員は中田耕市(同館館副館長兼チーフ・キュレーター)、古野華奈子、松村円の3名。

大竹伸朗は1955年東京生まれ。1980年代初めにデビューし、絵画や彫刻、コラージュ、インスタレーション、建造物など多様なかたちで作品を発表してきた。1988年に宇和島市に活動の拠点を移し、以来37年間同地で制作を続けている。2006年には「大竹伸朗 全景 1955-2006」(東京都現代美術館)を開催。ドクメンタ13(2012)やヴェネチア・ビエンナーレ(2013)にも参加し、国内外で高い評価を得てきた。近年では、東京国立近代美術館ほかを巡回した回顧展「大竹伸朗展」(2022〜23)が高く評価され、第65回毎日芸術賞を受賞した。

大竹伸朗 「大竹伸朗展 網膜」(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館)会場にて

本展は、大竹が長年取り組んできた代表的シリーズ〈網膜〉を軸に構成される。新作・未発表作を中心とした300点を超える作品で展開し、同館での個展は2013年の「大竹伸朗展 ニューニュー」以来12年ぶりとなる。2階と3階を同時使用し、同館としても最大規模の展覧会である。

会場風景

〈網膜〉シリーズの核心に迫る

本展の中心となる〈網膜〉シリーズは、大竹が宇和島のアトリエで1990年代初頭に集中的に制作を開始した代表作だ。廃棄された露光テスト用のポラロイド・フィルムに残る光の痕跡を引き伸ばし、透明なウレタン樹脂を何層にも塗布する独自の技法で制作される。シリーズ名の「網膜」は、本来は眼球の最奥で光を受け取り視神経を通して脳に情報を伝達する薄い膜を指すが、大竹はこの言葉を自らの独自技法による作品に名付けた。

会場風景

シリーズの制作背景について、大竹は興味深いエピソードを語っている。

「このシリーズは、89年から94年頃まで5年間ぐらい作っていたのですが、すごくお金がかかるシリーズでした。制作し続ける資金力がなかったので、元のフィルムだけを集中的に作って、ファイルに入れて、一旦凍結のような状態になりました。そのファイルが1回紛失して、10年後ぐらいに見つかりました。当時よりも、写真のフィルムについている現像の薬品が時間の経過で変化していました。もう1回それを伸ばしてみたら、当初よりも興味深いものになりました。そこからもう1回作り出したのです」

画面上で分離している「写真像の色面」と「透明の塗膜層」のふたつが、鑑賞者の網膜を通して脳内で統合され、「時間」や「記憶」といった目に見えない要素を内包する新たな像として立ち現れる。今回の新作では、こうした構造がさらに発展し、長年放置されたことで変質した感光剤が刻む時間が、幾層にも重ねられた塗膜によって包み込まれ、見る者の記憶を揺さぶる情景として浮かび上がる。

会場風景より、大竹伸朗《網膜火傷》(1990)部分

段階的に導かれる網膜の世界

展覧会は3つのエリアで構成され、鑑賞者を段階的に〈網膜〉シリーズの世界へと導いていく。入口では、高さ約3メートルの《網膜火傷》(1990)が訪れる人々を迎える。30年以上の時を経たこの初期作品が、静かに佇みながら本展の幕開けを告げている。

会場風景より、大竹伸朗《網膜火傷》(1990)

3階のメインの展示室では、新旧の〈網膜〉が一堂に会する。昨年12月にMIMOCA館内で制作された12点の新作は、旧作と比べて透明で艶やかな輝きを放つ。しかし近づくと、制作中に偶然生まれた凸凹の質感を確認できる。

大竹自身が「透明の絵の具」と呼ぶウレタン樹脂は、一層ずつ乾燥を待ちながら塗布される。この手法により、時間と偶然性が作品に刻み込まれていく。

会場風景
会場風景

興味深いのは、大竹がこれらを写真作品ではなく絵画作品としてとらえていることだ。奥にあるイメージと手前の樹脂コーティングというふたつの要素が合致し、脳内で複雑な表情として再生される。これはまさに網膜の機能そのものを作品化しているのである。

会場風景

11年ぶりに本来の姿を現した《網膜屋》

同じ空間には、11年ぶりの公開が実現した大型インスタレーション《網膜屋/記憶濾過小屋》(2014)が登場する。「ヨコハマトリエンナーレ2014 」で初展示された本作だが、今回は構想時の本来の高さ7メートルで展示されている。

扇形に開かれた網膜屋は、商店街の八百屋や肉屋のような「お店」として設定されている。大竹の構想では、町の人々が亡くなった家族の見ていた風景や記憶を再現してもらうため、資料を持って網膜屋を訪れる。網膜屋はその資料を用いて、故人の網膜映像を再現し記憶を蘇らせる。インスタレーションでは30分に1回、手前のタンクからスモークが噴き出し、網膜の再生完了を告げる。

会場風景より、大竹伸朗《網膜屋/記憶濾過小屋》(2014)
会場風景より、大竹伸朗《網膜屋/記憶濾過小屋》(2014)

「人の記憶を操作する普通の商店街の店があったら面白いなと思ったのがきっかけです。人の記憶、遺産や遺産相続、土地の登記などは、人が亡くなってしまうと、どうだったのかがわからなくなります。亡くなった人の記憶を確かめるために、トラブルの原因になった頃に写された写真を網膜屋に持ってくるのです。その網膜屋は、写真が撮られたときの網膜映像を再現できる人です。シャーマン的になりますが、僕が想定した網膜屋はもっと庶民的な、国家試験で免許が取れる、法律的にも認められている職業です」

会場風景より、大竹伸朗《網膜屋/記憶濾過小屋》(2014)
会場風景より、大竹伸朗《網膜屋/記憶濾過小屋》(2014)

網膜屋は、移動可能な構造物として設計されており、出張も想定されている。自走式ではないものの、豆腐屋の移動販売のように、人力かトラックに引かれて各地を移動できるという。

会場風景より、大竹伸朗《網膜屋/記憶濾過小屋》(2014)

時間の変化を受け入れる

そこから展示室を進むと、1990年代初頭に制作された〈網膜〉の大型作品や、〈網膜〉シリーズから派生し多様なメディアや形式へと展開した作品が登場する。

会場風景
会場風景

そのなかの3点の大型旧作品は、今回初めて壁に掛けられたもので、長くアトリエに眠っていたという。それらには、30年以上の時間経過が刻まれている。樹脂の黄ばみやひび割れ、表面の変化は劣化ではなく、作品の一部として受け入れられている。

「すべてのものが変化します。人間もそうですが、生まれたら死に向かうというのは宿命じゃないですか。物は変化していないように見えるけど、目に見えないスピードで劣化していると思います。たとえば新品の鉄が錆びていくというのは、自分にとってはある種の時間の目安です。変化しないように保つといっても、変化を止めることができないのは、時間を止めることができないのと一緒だと思います」

会場風景

「自分にとって作ることは、知ろうとする手段です。作ることで理解していくということが、すごく大きいと思います。見たことがない素材に興味を持って出会うと、自分だったらその素材で何を作ろうとするのか、何を作るのが一番ベストなのかという好奇心が湧きます」

会場風景より、大竹伸朗《網膜/六郷》(2025)

隣のスペースには、巨大なレリーフ状の最新作《網膜/六郷》(2025)が展示されている。タイトルは、大竹が2歳から8歳まで過ごした京浜工業地帯の町工場が密集する大田区南六郷に由来する。子供時代に遊んでいたプラスチック片の記憶が、蛍光灯とスピーカーを組み込んだ立体作品として結実した。

会場風景より、大竹伸朗《網膜/六郷》(2025)

さらに展示の見どころのひとつが、関連する作品と資料の紹介だ。2階では〈網膜〉シリーズの「ネタ帳」とも言える膨大な資料が展示されている。ポラロイド写真約190点、壁のテクスチャーを撮影した写真、そして1979年から制作していた学生時代の作品まで、大竹の創作の源泉が一望できる。

会場風景
会場風景

網膜を通して見る、理屈を超えた理解

作品と鑑賞者の関係について、大竹は興味深い見解を示している。「自分が時間をかけて作ったものを見た人が全部理解するということはありえないと思うし、その必要もない。説明を聞いて『なるほど』とわかるのは、『論理としてわかる』ということであって、『網膜を通して見て理解する』こととはまた違うと思います。だから理屈を理解したから作品がわかるというのは結びつかない。理屈をわかっている人よりも理解する人もいると思います」

会場風景

また、本展への期待を聞くと、大竹はアートにそれほど興味のない世代の反応に関心があると話した。

「僕のことをまったく知らない10代〜20代の子とか、アートに興味ないような人に見てもらいたいというのがあります。いまはデジタルで物を持たないじゃないですか。ミニマルに生きようという。網膜屋は真逆じゃないですか? だから、そういった世の中の風潮とか、自分が思い込んでいることと真逆のものがあの大きさで現れたときにどう反応するか、ということに関心があります」

大竹伸朗 「大竹伸朗展 網膜」(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館)会場にて

〈網膜〉シリーズに着目し、大竹伸朗の作品世界を深掘りする本展。時間と記憶が幾層にも重なる〈網膜〉の世界は、見る者の感覚を揺さぶる。およそ半世紀に及ぶ活動の成果を体験できる本展を、ぜひ訪れてほしい。

同時期には、コレクション展「猪熊弦一郎展 Since 1955」も開催中。1955年にアメリカに渡りニューヨークを拠点に活動を始めた猪熊弦一郎と、1955年生まれの大竹伸朗。ふたつの展覧会を通じて、異なる世代のアーティストが追求する「表現」の軌跡をたどることができる。

灰咲光那(編集部)

灰咲光那(編集部)

はいさき・ありな 「Tokyo Art Beat」編集部。慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。研究分野はアートベース・リサーチ、パフォーマティブ社会学、映像社会学。