会場風景
戦後日本の抽象絵画界を代表する画家・難波田龍起(1905〜97)の大規模個展「難波田龍起」が東京オペラシティ アートギャラリーで開幕した。会期は7月11日から10月2日まで。担当は福士理(東京オペラシティ アートギャラリー シニア・キュレーター)。
生前から高い評価を受けていた難波田だが、この20年あまり、まとまった作品群を見る機会は限られていた。本展は、92年の生涯をかけて抽象表現を追求し続けた画家の軌跡を改めて問い直す、まさに「再発見」の場となる。同館においても、1999年の開館時の「生の交響詩 難波田龍起展 日本的抽象の創造と展開」以来四半世紀ぶりの大規模個展であり、その意義は大きい。
今回の展覧会を語る上で欠かせないのが、同館で1999年から続く「project N」(プロジェクト エヌ)との関係だ。若手絵画作家を紹介するこのシリーズの「N」は、じつは難波田の「N」に由来している。1996年に文化功労者となった難波田が、受給する年金を若手画家の支援に使いたいと申し出たことから始まった本企画は、今年で100人目の作家を紹介する。難波田の教育者としての側面と後進への深い思いを物語る象徴的な存在と言えるだろう。
本展は、同館のコレクションの中核をなす寺田コレクションを基盤としている。約4000点の収蔵品のうち、じつに500点余りが難波田の作品だ。これは、コレクターの寺田小太郎(1927〜2018)が難波田の作品と人格に深く感銘を受け、本格的な美術品収集を始めたことによる。
展示は6つのセクションで構成され、第1章「初期作品と古代憧憬」では難波田の出発点が明かされる。北海道旭川生まれの難波田は、関東大震災後の夜警に出ていた際に詩人・彫刻家の高村光太郎と出会う。高村のもとに詩を持参して通ううちに絵画の道へと導かれ、高村の説く「生命の躍動」に励まされて「内的生命」の表現を追求し始めた。
やがて難波田は、ギリシア彫刻に古代への憧れを重ね、そこに自己の方向性を見出す。彼にとって古代とは「健康な自己統一」の理想が息づく時代であり、近代的意識の「自己分裂」を克服する手がかりとなるものだった。精神的な内実やポエジーを重視する姿勢がここに表れている。
興味深いのは、高村から学んだ「トーン」の概念だ。これはたんなる色彩の問題ではなく、視覚よりも「触覚」と結びつくことで、あらゆる表現に豊かな内実と強度をもたらすものだった。難波田はこれを生涯の課題とし、独自の「マチエール」の探求として実践していく。
第2章「戦後の新しい一歩:抽象への接近」では、戦後復興期における根本的な転換が描かれる。戦災から復興する都市のビル群の「直線」に新たな美を発見した難波田は、それまで敬遠していた抽象への接近を試みるようになる。
しかし同時にキュビスム由来の幾何学的抽象が持つ「非情」さに人間性否定のリスクを見て取り、南畑はこれをつにに戒めていた。抽象でありながら人間性を豊かにたたえた表現を求める姿勢こそが、彼の芸術を特徴づけている。
第3章「アンフォルメルとの出会い」では、1950年代後半から60年代にかけて、欧米の新たな抽象表現の動向が、日本に与えた大きなインパクトに焦点を当てる。
難波田はジャクソン・ポロックのドリッピング技法にインスパイアされながらも、独自のアプローチを展開した。ポロックのように画面全体をドリッピングで覆うのではなく、筆による多様なフォルム表現にドリッピングを組み合わせることで、装飾的なニュアンスを含んだ独特の表現を生み出した。
第4章「形象とポエジー:独自の『抽象』へ」は、本展のハイライトのひとつと言える。1974年と1975年に相次いでふたりの息子を失うという不幸に見舞われた難波田だが、この頃から新たな制作が立ち上がってくる。ドリッピングの技法は影をひそめ、時間をかけて線とかたち、空間的な広がりのある色彩を紡ぎ出す独自の画風が確立される。
この時期の代表作《昇天》(1976)は、抽象的でありながら興味深い特徴を持つ。細い筆で描かれた線をたどると、若い男性の頭部のようなかたちが浮かび上がり、さらに男性と女性が会話しているような光景も見て取れると担当学芸員の福士が解説する。難波田自身、抽象的に描いていても人影などが現れることについて「それは消そうと思ったら消せない。彼らが存在を主張しているから」と語っていたという。
第5章で紹介される1988年の水彩画連作<石窟の時間>は、寺田コレクション形成の起点となった重要な作品群だ。この連作の発表を見た寺田小太郎が深く感動し、非売品以外のほぼ全作品50点を購入したことが、本格的な美術品収集の始まりとなった。水彩特有のみずみずしさと結晶を思わせる硬質感が共存する独特の魅力を持つこれらの作品は、難波田の多面的な才能を物語っている。
展覧会のクライマックスは、第6章「晩年の『爆発』へ」で紹介される<生の記録>シリーズだ。1993年、88歳でパリを訪れた難波田がオランジュリー美術館でモネの《睡蓮》に感銘を受けて制作した4点からなる大作である。
現在のアートシーンでテクノロジーやコンセプチュアルな作品が注目を集めるなか、難波田の継続的な造形への探求は、絵画というメディアの本質的な可能性を改めて問いかけている。
四半世紀ぶりの大規模個展。多くの若い世代にとって難波田は「初めて見る」作家だろう。だからこそ、そこには新鮮な驚きと発見が待っている。戦後復興期から現代まで続く日本社会の変遷を背景に、抽象と具象の間で独自の表現を模索し続けたその姿勢は、現在のアーティストたちにも通じる普遍性を持つ。この機会に、ぜひ会場で難波田龍起の世界に触れてみてほしい。
灰咲光那(編集部)
灰咲光那(編集部)