稲垣健志 編著 『内灘闘争のカルチュラル・スタディーズ——アメリカ軍基地をめぐる風と砂の記憶』 青弓社、2025年
蛮勇がふるわれている、良い意味で——本書に目を通して、そう思った。辞書的に言えば、「蛮勇」とは「軽率な勇気」の意で、あまりポジティブな使い方はされない言葉だ(ソクラテス風に言えば、「勇気の過剰」となる)。だが、蛮勇はアマチュアリズムの十分条件ではないが、必要条件であると私は思う。あとがきのなかで、編者の稲垣健志は、エドワード・サイードの「アマチュアリズム」の定義を引きながら、「私たちは基地問題を憂慮しているアマチュアなのだ。いや、アマチュアであるべきなのだ」(177ページ)と宣言する。サイードが言うように、アマチュアリズムは自分だけの利害や狭量な専門性にとらわれることなく、憂慮や愛着などの人間的な感情に動機づけられた活動を指す。本書は、「蛮勇に満ちたアマチュアリズム」の書だ。
稲垣は彼が2024年に編んだ『ゆさぶるカルチュラル・スタディーズ』(北樹出版)のなかで、「カルチュラル・スタディーズありきの文化ではなく、文化ありきのカルチュラル・スタディーズ」(5ページ)を取り戻すことを掲げている。彼が憂慮するのは、既存の学問からの自由を求めて生まれたカルチュラル・スタディーズが、一定の普及とともに制度化され、それによりカルチュラル・スタディーズ自体が固定化された権威となっているという一部の現状だ。このような「憂慮に動機づけられ」て、『内灘闘争のカルチュラル・スタディーズ』は世に出た。本書がアマチュアリズムを標榜するのも、さもありなんと言える。
『ゆさぶるカルチュラル・スタディーズ』の寄稿者の一人として自分の理解を示せば、稲垣の関心の中心を構成する問いは、「誰のためのカルチュラル・スタディーズか」だ。学者のためだけの、あるいは学者のコミュニティのためだけのカルチュラル・スタディーズではなく、「沖縄で、国会議事堂前で、全国各地でスタンディングし、声を上げているアマチュアたち」(178ページ)のためのカルチュラル・スタディーズ。「パレスチナで、国立西洋美術館前で、世界各地でスタンディングし、声を上げているアマチュアたち」のためのカルチュラル・スタディーズ。万国のアマチュアよ、団結せよ!
アマチュアリズムの特徴のひとつが狭い専門性に拘束されない領域横断性だが、本書の寄稿者にも多彩な顔ぶれが並ぶ。そのなかに、本康宏史と高原太一を除き、日本の近現代史を専門とする者はいない(高原の専門にはカルチュラル・スタディーズも含まれる)。その意味で、本書は厳密には歴史学の書物ではない。それこそ、私が本書の書評を——蛮勇をふるって——引き受けた理由だ。だが同時に、逆に言えば、歴史を専門とする本康と高原が寄稿者に名を連ねていることは、本書が歴史学の知見を等閑視しているわけではないことを示す。本書は、「内灘闘争」という歴史的事象をひとつのケース・スタディーとしながら、カルチュラル・スタディーズが歴史学と、社会学と、美学と、あるいは表象文化論と、いかにして意味のある仕方で手を携えてアクチュアルな知の生産に貢献することができるかの実験の書でもある。
カルチュラル・スタディーズを主軸に据えた本書で、内灘闘争——1952年から53年にかけて石川県の内灘村で展開された戦後最初期の基地反対運動——の文化的表象は中核的な叙述対象である。それゆえ、写真(高原)、絵画(星野太)、映画(板倉史明)、短歌(井上法子)といった、さまざまな文化のジャンルのなかで、内灘闘争がどのように表象されてきたのか(あるいは、表象されてこなかったのか)が丁寧に分析されている。私にとって馴染みのある美術史の領域では、星野が取り上げているルポルタージュ絵画は、(彼も指摘する通り)「1950年代の芸術と政治の関係を再考」(85ページ)する近年の試みなかで注目度を増している。美術家・池田龍雄による内灘闘争を主題とした絵画《網元》(1953年)は、ルポルタージュ絵画を代表する作品として知られる。なお、「1950年代(日本)の芸術と政治の関係」への学術的関心は国内だけにとどまらず、海外でも研究が進む。そのなかでも白眉の成果と言える著作のひとつに、Justin Jesty, Art and Engagement in Early Postwar Japan (Cornell University Press, 2018)がある。手前味噌で恐縮だが、私は同書を日本語に翻訳したので、邦訳が8月末に水声社より刊行される予定である。乞うご期待。
これらの内灘闘争の文化表象をめぐる考察は、いずれも興味深く示唆的だ。だが、私の専門が現代アートであるため、個人的には、特に稲垣自身が教える金沢美術工芸大学(内灘村と同じく石川県にある)の現役学生や卒業生による、内灘をフィールドワークした成果として制作した作品群に大きな関心を持った。内灘で制作された現代アートの作品に一貫したテーマは、有形無形の「モノをしていかに語らしめるか」である。内灘で見つけた雑多なモノをしていかに「歴史を」語らしめることができるか。かつ、「現在の文脈において」語らしめることができるか。内灘闘争という歴史的事象を単なる過去として片づけたり、あるいは忘却の底に沈めたりしてはならない。編者の稲垣も、「砂丘に埋もれてしまっている内灘闘争をえぐり出し(…)これを自分たちの問題として引き受ける」(20ページ)ことの重要性を説いている。モノをしていかに、「自分たちの問題として」、すなわち「アクチュアルに」語らしめることができるか——現代アートの作品にはその可能性があり、本書にはそれを考えるヒントが詰まっている。歴史学はもとより、ソーシャリー・エンゲージド・アートやアート・アクティビズムに関心のあるすべての人に本書を推薦したい理由である。
最後に、「本書に足りていないこと、さらに必要なことがあれば、『足りていない』『必要だ』とSNSに書いておしまいにするのではなく、そのアイデアを持ち寄って、みんなで一緒に考えませんか?」(21ページ)と呼びかける稲垣に応答して、建設的な批判でこの書評を締めくくりたい。先述の通り、私は内灘闘争をめぐる文化表象の分析だけではなく(それらの分析は非常にエキサイティングなものであるが)、学生や教員が現在進行形で内灘という地域に関わりながら制作した現代アートの作品や展示が本書の起点となっていることが、そのダイナミクスとアクチュアリティを形成すると考える。事実、稲垣が執筆した章では、彼が学生たちとつくりあげた計3回の「内灘闘争——風と砂の記憶」展の様子や出展作が詳述されている。また、文化研究者の小笠原博毅が担当した章では、当時金沢美術工芸大学で博士課程に在籍していた宮崎竜成の《(●)》(2021年)をめぐる議論が展開される。
であればこそ、実際にフィールドワークや展示にアーティストとして参加した学生の声が本書のなかでももっと響いているべきではなかっただろうか。たとえば、学生たちによる座談会のようなものを企画して、そこで内灘での経験を通じて考えたことが本人たちの言葉で語ってもらうというアイデアはどうだろうか。「誰のためのカルチュラル・スタディーズか」という問いは大切だが、「誰『と共にある』カルチュラル・スタディーズか」という問いも同じく重要だ。狭い意味での研究者や学者だけで構成するのではなく、アーティストやミュージシャン、キュレーターといった実践者「と共にある」ことが、カルチュラル・スタディーズの包摂性や流動性を保つためには欠かせない。だが、このプロジェクトはこれからも続くのだろう。だから、ここで今後の課題として提示したい。
カルチュラル・スタディーズを取り戻そう(Reclaim Cultural Studies)。一緒に。みんなで。本書『内灘闘争のカルチュラル・スタディーズ』は、その決定的なステップのひとつとなることは間違いない。
山本浩貴
山本浩貴