「創造的な出会いのためのテーマ別展示」会場風景
東京・渋谷に事業家・投資家でアート・コレクターの植島幹九郎が設立したUESHIMA MUSEUMで、第2回となるコレクション展「創造的な出会いのためのテーマ別展示」が開催されている。「同時代性」を核とした、700点を超える国内外の現代アート作品コレクションから本展をキュレーションしたのは、世界的キュレーター/美術批評家の長谷川祐子だ。植島コレクションをどのように読み解き、解釈したのか、今回の展示のヴィジョンについて、長谷川による寄稿をお届け。【Tokyo Art Beat】
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コレクションをキュレーションするという行為は、たんなる並べ替えや再配置の作業ではない。そこには、作品と作品のあいだに生じる磁場を読み取り、その関係性から新たな物語を立ち上げる構造的な思考が必要である。今回、700点におよぶ植島コレクションから60余点を選び構成した「創造的な出会いのためのテーマ別展示」は、その磁場を可視化し、観者に体験させるための試みである。
植島コレクションの特徴は、その収集方針が体系的な美術史の補完や地域作家の網羅性に基づいていないことにある。植島幹九郎館長は、作品との直観的な出会いを重ねることでコレクションを形成してきた。彼のなかの「現在性」をどのようにコレクションを通じてかたちにするのか。そこには、公的美術館がもつ、地元作家を必ず含めることや、特定のエポックにフォーカスするなどの条件や収集方針がない。それゆえ、キュレーターとしては、ほとんどライヴに近いこの“生のドキュメンタリー”をどう見せるかが最初の課題となった。この自由度は挑戦であり、同時に新しい展示方法を探る可能性と考えた。開館2年目の展示であり、常設の2階を除いて前回の展示作品とできるだけ重複を避けて作品選択を行った。
学校を利用した当館は、各階の面積があまり広くなく、ほぼ同じ空間が連続する。単調になるのを避けるため、外とつないで変化をもたらすことを考えた。絵画が中心のコレクションであるため、中を満たす光の質と空間のテンションは鑑賞体験に大きく作用する。植島館長と相談し、カーテンやカーペットをはずし、窓に遮光スクリーンを貼って外光をとりいれ、オリジナルの床にモルタル、白塗装仕上げで、展示空間の輝度と透明度を上げた。
展示を構成するにあたってふたつの原則を置いた。ひとつは、各展示室に「主役」を立たせること。もうひとつは、その主役と関係性を築くことで若手作家や作品の魅力を引き出すことである。クオリティやインパクトの強い作品を主としてストーリーラインを作るのではなく、異質なものを並置することで生まれる緊張感と調和、観客の視点に委ねられる創造的な余白を重視した。多様な収蔵品をどのような文脈で整理してみせるのか。各階ごとに、平均10~20点の作品によって生み出されるストーリーが重なり合っていく。複数のキーになる作品から横断的な解釈によってストーリーを抽出するという試みだった。学術的な言説とは異なる、展覧会の目的のために作られた「展覧会的言説」によって、とらえがたい多様な現在性を語る。キュレーションを通して「ライヴ」の「ロジック」を探ろうと考えたのである。
観者を迎える1階は、「都市とポップ」の空間である。ライアン・ガンダーの猫の寝息が静かに流れるエントランスを抜け、入った最初の展示室は渋谷の街と直結するように構成された。カーテンを開け放ち、バルコニーの床色を内部と連続させることで、都市のリズムと展示室の空気をつなぎ、作品群が街のざわめきと呼応する。トーマス・シュトゥルートがとらえた渋谷の写真は、都市の現実と美術的表象の境界を曖昧にする。アンディ・ウォーホルや、杉本博司が作品で引用したマルセル・デュシャンによる日常と距離を取る冷ややかな視線、バンクシーがべトナム戦争の惨禍にげまどう少女とマクドナルドのキャラクターを並置した残酷な風刺。さらに、奈良美智が核批判を背景に作った陶器のオブジェ《No Nukes》と、浮世絵を転用して自然災害に言及した作品群のあいだに葛飾北斎の諸国名橋奇覧の「亀戸天神の太鼓橋」をこの世とあの世をつなぐ橋の謂として挿入することで、江戸のポップアートが現代の批評性と政治性に強度を与える。次の部屋はできやよい、草間彌生、タカノ綾、爆弾をかかえた少女(バンクシー)とガールズパワーが炸裂しており、この見えない「地雷」は渋谷の真ん中にあって一層その破壊力を増強される。都市とポップを媒介に、日常と歴史、アイロニーと内破する美の磁場がここに生成されている。
地下に降りると、重力と物質がテーマとなる。シアスター・ゲイツによるタールの黒い画面が重力の抗いを体現し、極小のゲルハルト・リヒター作品がそれと同じ重力を醸している。ロバート・ロンゴの冷ややかな金星像、ボスコ・ソディの大地的物質性が共鳴する。若手作家多田圭佑の厚塗りの絵具は触覚的な重さを空間に与え、地球の重力と宇宙的な浮遊感が拮抗する場が生まれる。地下の展示空間全体が、地球の重さと宇宙の無重力との狭間に置かれた人間の存在そのものを呼び覚ますように仕組まれている。物質が下へ引かれ、同時に浮遊を夢みる、その緊張の場に観者は立ち会う。
2階に上がると、重さから解放されるかのように光と知覚の領域が広がる。ここは没入の階であり、光がそのまま素材となる。「シャイン」、絵画を光であるとしたリヒターを中心におき、ノイズや歪み、バグなどを作品のメディウムー版画(ヘリオグラビュール)、写真、絵画などの組み合わせのヴァリエーションで見せた。タレルの光の部屋に身を置く体験は、視覚がたんなる映像の受容ではなく、身体全体を包み込む現象であることを思い出させる。池田亮司の音響と映像による干渉、オラファー・エリアソンの光学的効果が織りなすリズムは、観者の知覚を変容させる。ここでは「見る」という行為が、目だけでなく皮膚や耳、さらには身体の内側にまで浸透し、光そのものが物質であることを再確認させる。2階は、世界の輪郭が解きほぐされ、抽象と具象の境界が柔らかく解体される空間となっている。
3階にたどり着くと、展示の温度は落ち着きを取り戻す。ここで提示されるのは、日常の延長にある幾何学的抽象である。生活に溶け込むようにシンプルな形態のなかに、多層的な情報が秘められている。アグネス・マーティンの繰り返しの線やカプワニ・キワンガのやわらかなフォルムは、日常の静けさを湛えながらも、その奥に厳密なロジックを含んでいる。ここでの抽象は、熱すぎもせず冷たすぎもしない常温の水のようである。観者の思考を急がせることなく、穏やかに包み込み、思索を深めさせる。生活と抽象が交錯するこの空間では、日常のなかに潜むリズムや規則性が形態として姿を現し、思考が視覚のなかに流れ込んでいく。単純な形態の背後に潜む複雑さは、静謐な余韻を残しつつ観者を引き込む。
4階に進むと、色彩と物語が複雑に絡み合う空間が展開される。ここでは、歴史や個人の物語を背負った作品が並置されるが、そのあいだに抽象的な絵画が挿入されることで、観者に解釈の自由が委ねられる。物語的な要素が単線的に重くなるのを避け、抽象を介在させることで色彩そのものが自律した力を放つようになる。ベルナール・フリズや油野愛子の抽象や、ロベルト・パレなどアフリカのアーティストによるポストコロニアルのハイブリッドな作品群が織り交ぜられ、物語性と色彩のアウラが漂う。観者はここで、作品に提示されたナラティヴをただ追うのではなく、むしろ画面の力をたよりに、自らの物語を紡ぎ出す主体となる。展示空間そのものが、複数の解釈を生み出す装置となり、観者は「自分が読みたいように操作できる自由」を与えられる。ここは、他者の物語と自己の経験が交差する場所であり、その交点で色彩が新たな意味を生成する。
そして5階は、展示の最終的な高まりを示す。ここで扱われるのは、生命情報、砂、ガラス、厚塗りの絵具や紙などの異なる物質がもたらす形象のエンタングルメント(量子のもつれ)である。ジャン・ミシェル・オトニエルのガラス玉のもつれが光を乱反射し、水戸部七絵の厚く重ねられた絵具が物質そのものの重みとしてベッドと一体化し、ニコラ・ビュフによるライトな紙の肌理でできたレリーフが装飾的な様式のなかに物語をつむぐ。これらはパターンやフォルムに沿って操作され、物質そのものが感情や記憶と絡み合うように響き合う。量子力学における「エンタングルメント」の比喩が示す通り、ここでの物質と感情は切り離せない。愛や欲望、記憶や夢が、ガラスの反射や絵具の厚みを通じて顕在化し、展示空間全体がひとつの記憶装置として機能する。観者は、物質が媒介する感情のもつれに触れることで、自らの内的世界と他者の経験との結び目を意識する。
こうして地下から5階に至る展示は、重力から光へ、日常の抽象から物語、そして物質と感情の絡まりへと、段階的に展開していく。各階のテーマは孤立したものではなく、互いに呼応し合いながら全体を織り成している。観者はその中を移動することで、重力の感覚から解放され、光に浸り、抽象に沈潜し、物語を紡ぎ、最後には物質と感情の複雑な絡み合いに触れる。展示の流れは、まるでひとつの生成過程のようであり、観者は自らの感覚と解釈をその都度更新しながら体験を積み重ねていく。
この展示全体を貫いているのは、直観と構造のあいだを往還するキュレーションの論理である。植島コレクションの自由で予測不能な豊かさを損なわずに、観者が新たな視点と感覚を獲得できるように編成することを意図した。作品同士が互いを照らし合い、新しい意味を紡ぎ出す関係性の網であり、観客はアクターでありエージェントでもある。展示空間は「各自の構造」となるべく立ち上がっている。
長谷川祐子
長谷川祐子