篠原有司男による新作。左から《防空壕掘りで張切るおやじ》(2025)、《都心は大火らしい》(2025)、《防空壕掘り》(2025)
東京・銀座のギャラリー58でグループ展「戦後80年 1945年の記憶」が開催されている(6月25日〜7月18日)。戦後の日本を代表する5人の美術家—篠原有司男、石内都、中村宏、吉野辰海、赤瀬川原平—が、それぞれの視点から戦争の記憶や体験を投影した作品を紹介している。
本展では、篠原有司男(以下、ギュウちゃん)がいままで作品として描いたことのない幼少期の戦争体験を初めて作品として発表。同ギャラリーの長崎裕起子が本展をきっかけにギュウちゃんに数回にわたって電話インタビューを行った(*1)。ここでは、インタビューをもとに、93歳になった現在も精力的に制作活動を続けるギュウちゃんの語った戦時下の体験を作品とともに見ていく。
篠原有司男ことギュウちゃんは1932年東京生まれ。北九州出身の詩人の父と日本画家の母のもと、アーティスティックな環境のなかで育つ。1952年に東京藝術大学美術学部油絵科入学。在学中より読売アンデパンダン展に出品し、日本の前衛芸術の一時代を築く。同大学を中退後、吉村益信らと「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」を1960年に結成し、メンバーとして活動。1969年にニューヨークに渡り、以降50年以上にわたって同地を拠点に活動を続けている。芸術家の妻・乃り子との日々を描いたドキュメンタリー映画『キューティー&ボクサー』(2013)が大きな話題となった。
原色を大胆に使った大型の絵画や、「ボクシング・ペインティング」をはじめとするエネルギッシュな作品で国内外から高い評価を受けるギュウちゃん。長崎によれば、幼少期に戦争を体験しているにもかかわらず、作品ではいままで描かれたことがなく、インタビューでも語ったことがほとんどない。本展をきっかけに制作された作品はどのようなものなのか、見ていこう。
本展で発表された作品は全部で6点。それにさらにギュウちゃんの手書きのメモも添えられ、そこには空襲が激しくなった頃、中野の親戚宅に引越した経験が書かれる。
戦前の学校教育を語る上で欠かせないのが教育勅語である。ギュウちゃんが通っていた番町小学校でも例外ではなかった。当時の厳格な教育現場について、ギュウちゃんはこう振り返る。
生まれは東京都千代田区番町。番町小学校に通ってたの。小学校では校長先生が毎朝、教育勅語を言うわけよ。番町小学校の体育館の一番奥にしまってある教育勅語を、校長先生が白い手袋をして慎重に取り出し、持ってくる。俺たちはずらっと並んで立ち、「朕惟ふに、我が皇祖皇宗、国を肇むること宏遠に〜」と聞いていた。じっと聞いていなければならず、ちょっとでも動いたら先生に蹴飛ばされたり、殴られたりすんだから大変だったんだ。
家庭でも軍国主義教育は徹底されていた。教育熱心な母親の指導のもと、ギュウちゃんは毎日教育勅語を書き写していたという。
俺んちのお袋は教育ママだから、朝に教育勅語を紙に書くよう言われていた。だから少しずつ書いてそれから学校行って、翌日また書く。そんなこともやってた。
それから、阿佐ヶ谷にあった日本大学第二工業学校に入ったの。日大二校という工業学校で、目が悪いから飛行機には乗れないが、飛行機の整備員になれるかもしれないと思って入ったのだが、1年で疎開しちゃったからさ。
空襲の激化に伴い、篠原一家は麹町から中野への疎開を決断する。そのときの様子を、ギュウちゃんは記憶している。リヤカーでの引っ越しは、家族総出の一大事業だったと語る。
番町(麹町)から中野に移る際、おやじがリヤカーに荷物を載せて苦しそうに引き、俺が後ろからよいしょ、よいしょ!と押していた。新宿の小滝橋という橋の坂がとくに大変だった。
お袋がいちばん大事にしていた平凡社の『世界美術全集』30巻ほどもリヤカーに積んだ。その美術全集がそのまま中野の家まで運ばれたことが、僕のアート体験というか、画家のスタートだね。読むものがそれしかないんだからさ。ギリシャの彫刻やヴィーナス、ゴッホやゴーガンなど、解説もたくさん書いてあるわけよ。それらを読んで感動し、一種の英才教育だよね。
お袋がおやじに「これだけは持っていく」と言ったんじゃない? おやじも詩人で詩の本をたくさん持っていたが、美術全集だけは全巻を積んで運んだよ。
中野への疎開後、篠原一家は本格的な空襲に見舞われることになる。幸い直撃は免れたものの、連日の爆撃音とともに過ごす日々は、少年の心に深い印象を刻んだ。興味深いのは、本展で発表された新作に描かれている空の表現だ。遠くに見えた赤い空が鮮やかなピンクで表現されている。そこには恐怖の記憶をポジティブに自分らしく描くギュウちゃんの意志も見えてくる。
番町から中野に引っ越して1か月後ぐらいだろうね。大空襲があり、番町付近はすべて焼けたよ。空襲は向こうで火がぼうっと赤く燃えているのが見えるだけだった。中野から本所深川方面の空が赤くなり、夜はそれを眺めながら「やられている」と思った。ラジオも何も聞こえないから、どうなっていたのかも全然分からない。
父親が掘った防空壕は、決して頑丈なものではなかった。手作りの簡易なもので、爆弾の直撃を受ければひとたまりもない構造だったという。
中野の家の小さな庭に、おやじが防空壕をほじくってね。縦穴といっても深くはなく、子供が3〜4人入ればいっぱいになる程度だった。堅い赤土を掘って固め、3段ほどの段を作った。赤土は比較的固まりやすく、それで段ができるんだよ。その下にボロ布団が敷いてあって、そこに座り込んでじっとしていた。ドカンドカンと音がするなか、そこにしゃがんで配給でもらったカンパンを食べたりした。
防空壕の上は戸板を1枚載せただけで、それが屋根なんだよ。地面の穴の上の蓋に泥を塗っただけで、爆弾が落ちたらおしまいだよね。
高射砲も見た。飛んでいって上で「バーン」と破裂するわけよ。その鉄の破片が落ちてきたこともあった。
戦況がさらに悪化すると、篠原一家は長野県佐久の御代田への疎開を決断する。母親と弟、そしてギュウちゃんの3人での疎開だった。父親は中島飛行機での仕事のため東京に残らざるを得なかった。
長野の佐久の御代田というところに、お百姓さんの知り合いがいて、3〜4ヶ月疎開していた。お百姓さんを訪ねていくと「お帰りなさい」と迎えてもらい、その晩は白米のご飯をひとりずつ茶碗にもらった。びっくり仰天した。ただし、それはその日だけ。
庭は広かったが、その端に納屋のようなところがあり、味噌樽などが置いてある場所だった。そこの隅にボロ布団をかけて寝るという感じだった。でも春から夏にかけてだったか。
とくに印象深いのは、父親が鏡台を背負って疎開先まで運んできたエピソードだ。戦時中という困難な状況のなかで、家族を思う父親の愛情が伝わる。
おやじが汽車で疎開先まで来てくれたことがあった。化粧道具入ってる鏡台ってあるでしょう。やっぱりおふくろは女なのでそれを持ってこいって手紙出したんだろうね。おやじがそれを背中に背負ってやってきた。戦争中だぜ。背中に鏡台を背負って「はいよ」と置いて、すぐに帰っていった。
しかし、疎開先での生活も次第に困難になり、最終的には別のアパートに移ることになる。
しかし、その後はお百姓さんのところから引っ越したからさ。母も住みにくかったのではないか。最初は良かったが、だんだん汚いところに追いやられたため、アパートに引っ越した。アパートといっても人の家の2階を借りただけだった。その頃終戦になって、おやじが迎えに来てくれて中野の家に帰った。汽車はもちろん疎開先から帰る人で満杯だった。軽井沢から上野に向かって走っていく汽車を毎日見ていたよ。
終戦後の日本は深刻な食糧難に見舞われた。篠原一家も例外ではなく、生存のために様々な工夫を凝らした。
東京全体が飢え死に寸前の状況でね。進駐軍が物資をどんどん投入していたが、アメリカの物資なので砂糖や缶詰が中心だった。米は全然なく、米軍にあるのは缶詰と粉ミルクで、どうやって食ったらいいか家庭じゃ分からないんだよね。少しずつ配給になる米のようなものでおじやを作って増量していた。野菜は全然ないから野原に行って、新聞か何かに雑草の中から食えるのが載ってたんだよね。その雑草を集めてきて、おかゆに入れて増やした。
食糧事情が少しずつ改善されると、闇市場での物々交換が始まった。母親の着物を持参してサツマイモと交換する日々は、戦後復興期の庶民の生活を物語る。
だんだん良くなってくると、今度はサツマイモが出回ってくるんだよ。東京の近郊の農家はみんなサツマイモを作っていたので、それを買いに行った。買いに行くといっても闇市場だよね。お金がないから、お袋の着物や帯などと交換してカバンにサツマイモをもらい、それを電車に乗って担いで帰ってくるわけ。
中野の家ではみんなが待っていて、「ただいま」「お帰りなさい」「お疲れさん」という感じで迎えられた。
戦争の直接的な被害からは幸い逃れることができたギュウちゃんだが、友人や知人のなかには犠牲者もいたと語る。
(自分の家が被害に)遭わなかったよ。運が良かったんだね。おやじが務めた中島飛行機は爆撃でやられたらしいが、おやじは助かった。親戚も戦争で誰も死んでないし、親兄弟も全然死んでない。
しかし番町小学校の友達は爆撃に遭い、焼夷弾が落ちたりした。あとで聞いたら、落ちてきた焼夷弾の破片などを分解していて、爆発して死んだとかさ。番町小学校の親友の母親は焼夷弾に当たって死んだと言っていた。
今年93歳となったギュウちゃんが、初めて作品として表現した戦争体験。それはたんなる回想ではなく、ひとりの少年が体験した戦争の現実であり、同時に芸術家としての原点の物語でもある。戦後80年という節目の年に記録されたギュウちゃんの証言と作品は、次世代への贈り物として、私たちが大切に受け継いでいくべきものである。
*1──本記事は長崎裕起子(ギャラリー58)がニューヨーク在住の篠原有司男に実施した電話インタビュー(2024年11月15日/12月21日/2025年2月7日/3月15日/4月1日/6月22日)をもとに構成されている。
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灰咲光那(編集部)
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