公開日:2025年6月20日

第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展が問いかける、「適応」の時代の来るべき“知性”。日本館が示した「中立点」の地平とは(評:近藤亮介)

5月10日から11月23日まで開催されている「第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展」。「緩和」ではなく「適応」の時代における知性の在り方を問う展覧会テーマに、日本館を含む各国パビリオンはどのように応答したか。現地を訪れた美術批評家・キュレーターの近藤亮介がレビュー。

第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 日本館「In-Between」上階ギャラリーの展示風景 ©︎ Asako Fujikura + Takahiro Ohmura

Intelligens. Natural. Artificial. Collective.

第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展(以下、建築展)が5月10日に開幕した。今回、総合ディレクターを務めるのは、イタリア生まれの建築家・エンジニアであるカルロ・ラッティ。インテリジェント・システムおよび自然界と人工界との融合に焦点を当てて研究を行ってきた彼が掲げたテーマは「Intelligens. Natural. Artificial. Collective.」である。

ラッティは、気候変動の時代における建築には「緩和(mitigation)」から「適応(adaption)」への根本的な転換が求められると説く(*1)。気候への影響を軽減する設計はもはや手遅れで、変化した世界のための設計へと考え方を改めるときが来ている。「緩和」は人間が地球上で支配的な立場にあることを前提としているが、「適応」は地球に従って自分たちが変わるという慎ましい態度を示している。そして、そのために不可欠となるのが、異なる種類の知性の協働である。この主張からもわかるように、Intelligens、Natural、Artificial、Collectiveという4つの単語は並列関係にあるわけではない。アルセナーレ会場の企画展では各セクションに「Natural Intelligence」「Artificial Intelligence」「Collective Intelligence」という副題が付けられており、自然・人工・集合を統御するエージェントとしての知性の役割が強調されている。なるほどラッティは、現代のAIやデジタル技術に偏りがちなintelligenceのイメージを批判的にとらえ、ラテン語のintelligensを用いることで「gens=人々」を軸とした知性の在り方を問うている。

欧米諸国の「正しさ」

このようなラッティの問いかけに対して、出展者は様々な角度からアイデアを打ち出している。Natural、Artificial、Collectiveという3つの要素をバランスよく融合させていたのは、建築事務所のDiller Scofidio + Renfro(DS+R)、水工学専門集団のNatural Systems Utilities、環境工学企業のSODAIらによる「カナル・カフェ」(企画展示部門金獅子賞)である。このプロジェクトは、ヴェネチアのラグーナ(潟)から汲み取った汚水を濾過して飲料水へ変換し、その場で淹れたエスプレッソを来場者に提供するものだ。コーヒーを飲むという日常的行為から、ヴェネチアのアイデンティティともいうべき水の問題に切り込む視点は、誰もが環境問題の当事者であるという事実とその具体的解決策をスマートに突きつける。

第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 「カナル・カフェ」会場風景 撮影:筆者

Collectiveを重視した展示としては、イギリス館(国別参加部門特別表彰)が挙げられる。同館は「GBR:Geology of Britannic Repair(イギリス式修復の地質学)」をテーマに、ケニアをはじめとする元植民地の人々との協働や、現地の素材・技術を用いた建築行為に取り組む。この「修復」には、建築と大地とのつながりを取り戻すことと、イギリスと当該国との溝を埋めることというふたつの意味が込められている。ポストコロニアルの視点から帝国主義と資源搾取への反省をポジティブな未来像へ転換しようとする姿勢は、環境問題を近視眼的に扱いがちな展示が散見されるなかで、議論の広がりを感じさせるものだった。

第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 イギリス館「GBR: Geology of Britannic Repair」会場風景 Photo: Marco Zorzanello Courtesy: La Biennale di Venezia

いっぽう、Naturalに焦点を当てるのはアメリカ館である。同館は「Porch: An Architecture of Generosity(ポーチ:寛大さの建築)」をテーマに、植民地時代から親しまれてきた「ポーチ」の系譜を通じて国家の理想像を描き出す。ポーチとは、建物の出入口から張り出した屋根付きの半屋外空間を指すが、雨風を防ぐという実用的機能だけでなく、眺望や社交を楽しむ場としての文化的機能も備えている。本展の狙いは、ポーチに由来する多様なデザインが現代にも息づいていることを実証し、アメリカが育んできた寛大で民主的な精神を伝えることにある。だが、トランプ政権が威圧的な外交を続ける現在、そのような主張は空虚に響く。

第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 アメリカ館「PORCH: An Architecture of Generosity」会場風景 Photo: Marco Zorzanello Courtesy: La Biennale di Venezia

そのほか、建築における脱炭素化の実現可能性を検討するスペイン館「Internalities(内在性)」や、不安定な世界における現代建築の有効性を探るフランス館「Living With(ともに生きること)」など、ナショナル・パビリオンでは欧米を中心に気候変動と人新世を意識した展示が多く見られた。得られる情報は多いものの、ポリティカル・コレクトネスによって自縛されがちな彼らの展示は、まだ特権的な「緩和」の立場にとどまっているようで、物足りなさを感じないわけではない。

第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 スペイン館「INTERNALITIES Architectures for Territorial Equilibrium」会場風景 Photo: Luca Capuano Courtesy: La Biennale di Venezia
第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 フランス館「Living with / Vivre Avec」会場風景 Photo: Marco Zorzanello Courtesy: La Biennale di Venezia

在来知の潜勢力

上述したナショナル・パビリオンが文字や図表を駆使した解説に注力するのに対して、インスタレーションに特化した館もあった。というより、解説に頼らず、インスタレーションで感覚に訴えかける展示のほうが、むしろ効果的にメッセージを発していたと思われる。

その典型ともいうべきバーレーン館(国別参加部門金獅子賞)「Heatwave(熱波)」をテーマに、砂漠や気候変動がもたらす極端な暑さに対する実用的対策をインスタレーションで提案する。中東で発達したバードギール(採風塔)や駐車場の庇などのヴァナキュラーな冷却装置に想を得て、地熱と外気の循環によって気温上昇を抑える空間を原寸大で提案した。その屋根は、1本の柱で支えられた片持ち梁(カンチレバー)構造で、建設現場などの屋外に設置可能なモジュール式のデザインを採用している。つまり、ただ暑さを緩和するのではなく、暑さに長時間さらされる労働者に配慮した公共空間として構想されており、鑑賞者が砂袋の上で休憩しながら、環境における社会的公平性に思いを巡らす仕掛けとなっている。

第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 バーレーン館「Heatwave」会場風景 撮影:筆者

同様に印象に残ったのは、東ヨーロッパ諸国のパビリオンである。セルビア館「Unraveling: New Spaces(ほどくこと:新しい空間)」をテーマに、伝統的な手仕事である編み物とアルゴリズムに基づくAIを掛け合わせたインスタレーションを制作した。展示室には毛糸で織られた巨大な布が天井から吊るされており、空間をたゆたっている。壁に設置された無数の木軸が、布から糸をゆっくり巻き取っている。布は太陽光エネルギーを動力とする木軸によって徐々に解きほぐされ、最後には125個の毛糸玉に戻るという。一度織られた布が糸に帰するプロセスは、建築が構築と解体の循環の上に成り立っていることを静かに伝えている。

第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 セルビア館「Unraveling: New Spaces」会場風景 Photo: Luca Capuano Courtesy: La Biennale di Venezia

また、ポーランド館は古代ローマの家神に因んで「Lares and Penates: On Building a Sense of Security in Architecture(ラレスとペナテス:建築における安心感の構築について)」と題したインスタレーションを作り出した。同展は、建築の基本的機能が「保護」であることに立ち返り、気候変動や政情不安といった危険が広がるグローバル時代において安心感を取り戻すための手段を模索する。見慣れたテクノロジー(ヒューズ、火災探知機、監視カメラなど)と、前近代から続く風習(精霊に捧げるボウル、ハーブを束ねたお香、竣工を祝うリースなど)との対照から浮かび上がるのは、後者を生み出したCollective Intelligence(集合知)の豊かさだ。

第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 ポーランド館「Lares and Penates: On Building a Sense of Security in Architecture」会場風景 Photo: Luca Capuano Courtesy: La Biennale di Venezia

環境に配慮した素材を用いたこれらの展示が、持続可能性を意識していることは一目瞭然である。しかし、雄弁な西ヨーロッパや北米に比べると圧倒的に文字情報が少なく、ともすると朴訥な印象を与える。たしかにインスタレーションには、鑑賞者の感覚に直接訴える力があるいっぽうで、背景にあるリサーチ過程が見えにくくなってしまう側面もある。とはいえ、これらのインスタレーションがラッティの問いかけに真摯に応えていることは間違いない。それは、真の安心感や環境正義、循環型社会をもたらすのは、最新科学に象徴される特権的な知性ではなく、地域で脈々と受け継がれてきた集合的な知性だというメッセージだ。

日本館:人間と生成AIとのあいだ

今回の建築展では、インスタレーション形式の展示に興味をひかれるものが多かった。そのなかでもとくに異彩を放っていたのが、日本館である。今年はキュレーターに青木淳、キュラトリアル・アドバイザーに家村珠代、出展作家に藤倉麻子+大村高広SUNAKI(木内俊克+砂山太一)を迎え、「In-Between(中立点)」をテーマに人間と生成AIとのあいだを探る。

本展は、主に上階のギャラリーと下階のピロティから構成される。ギャラリーの展示を担当するのは、藤倉麻子+大村高広である。足を踏み入れると、そこは緑一色の空間で、正面左右の壁にそれぞれ映像が投影され、映像と同期した声や音楽があちこちから流れてくる。映像は、仮想世界で物体が動き回る3DCGと、異なる世代の5人の人間が食卓を囲む実写で構成されるが、核となるのは実写側で展開される不思議な会話だ。人間は、食事をともにする他者とだけでなく、生成AIが憑依した画面外の空間、すなわち日本館の建築を構成する7つの部位――穴、壁柱、四周壁、煉瓦テラス、階段庇、動線リング(建物の外周を囲むように想定された円)、イチイの木――とも会話を繰り広げる。

第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 日本館「In-Between」上階ギャラリーの展示風景 ©︎ Asako Fujikura + Takahiro Ohmura

いっぽう、ピロティを中心に作品を構成するのはSUNAKIである。彼らは「穴」と「動線リング」に焦点を当てる。厳密には、これらは実体を持たない点で、ほかの部位と性格が異なる。穴の真下には銅製のソーサーが置かれ、スポットライトを定期的に反射して、上階の天井に穴のシルエットを浮かび上がらせる。ソーサーの脇では、既存の台座に取り付けられたスマートフォンが自動生成された会話を表示し、その会話を別の台座に取り付けられたスピーカーが読み上げる。上階と下階を緩やかにつなぐ動線リングの軌道上には、ところどころに手すり状の素焼きプランターが置かれ、時間が経つにつれて植物は根を張り、プランターは朽ちていくことが想定されている。

第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 日本館「In-Between」地上階ピロティの展示風景 Photo: Luca Capuano Courtesy: La Biennale di Venezia

日本館が映し出す水平性

このようにインスタレーションの構成をなぞるだけでも、本展がほかの展示と一線を画していることは明らかだ。数あるパビリオンのなかで本展を際立たせているもの――それはサイト・スペシフィシティナラティヴである。サイト・スペシフィシティとは場所の固有性に対する応答であり、本展に即して考えるなら、日本館そのものへの応答だといえるだろう。なるほど既存の建築空間を積極的に読み替える視点には、キュレーターを務めた青木らしさが窺える。東京藝術大学美術館 陳列館で開催された「雲と息つぎ」(2023)では、足場を組んだり布帯を張ったりすることで鑑賞者の身体感覚を伸び縮みさせ、思いもよらぬ空間体験を生み出した。あるいは、建築部位が孕む知性への関心は、SUNAKIも参加した第17回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展(2021)の日本館展示「ふるまいの連鎖:エレメントの軌跡」の延長線上に位置付けられる(*2)。

「In-Between」においても日本館という建築がまず中心にあり、出展作家がそれぞれの方法で空間と戯れることで、場所の性格を顕現させる。あるときはイチイの木がジャルディーニの起源を語り、またあるときは穴が自身の存在意義を尋ねる。ただ、本展のサイト・スペシフィシティは、日本館という建築空間にとどまらず、ヴェネチアという都市構造にまで及んでいる。端的にいえば、それは「水平性」である。ドゥカーレ宮殿をはじめとするヴェネチアン・ゴシック建築は、西ヨーロッパのゴシック建築が垂直性を志向したのとは対照的に、水平方向への広がりを持つ。その背景にはラグーナの軟弱な地盤があり、荷重や洪水の影響を減じるために、軽い素材やアーケードを用いる必要があった。水平性は、建築のみならず生活にも浸透している。船による移動では、重力よりも風や波、接岸時の衝撃といった横方向の力を頻繁に感じる。

しかし、ここで強調したいのは、水平性が都市の精神をも規定してきたということである。歴史的に見れば、ヴェネチアは総督(ドージェ)を元首とする共和制を採用し、権力を分散させてきた。また、東方貿易を通じて多様な文化が共存する社会を形成してきた。これらの事実は、複数の主体が互いに関わり合いながら都市を発展させてきたことの証であり、ヴェネチアの公共性を体現している。そして、このような水平性ないし公共性は、本展参加メンバーのコレクティヴな性格に反映されている。建築家、キュレーター、アーティストといった異なる専門性を持ち、柔軟かつ対等に協働する彼らの関係性は、ヴェネチアに息づく水平性のアナロジーであり、本展のサイト・スペシフィシティをより一層深めている(*3)。

主客未分としての「中立点」

いっぽう、本展のナラティヴが問いかけるのは、人間と生成AIとの関係性である。AIの問題点は、「誤った情報」と「平均化」にあるとしばしば指摘される。誤った情報とは、不完全なデータや文脈の誤解に起因するエラー(間違い)であり、平均化は「数の論理」によってノイズを排除し、陳腐な正しさを蔓延させるおそれがある。たしかに、現在のAIの主な仕事は膨大なデータの処理・分析にあり、最終的な真偽の判断や少数派への配慮は人間に委ねられている。つまり、私たちはAIの爆発的進化に驚きつつも、まだ人間が補完すべき不完全な存在と見なしている。だが、こうした態度は、人間とAIがより豊かな関係を築く可能性を閉ざしてしまわないだろうか。AIを対象化してしまうと、やがて人間から仕事を奪い、人類を支配するという悲観的な見方が生じるかもしれない。

しかし、AIを人間の一部として解釈するならば、私たちは主従に囚われず、より自由な協働関係を取り結ぶことができるだろう。本展が探究するのは、まさにそのようなオルタナティヴな関係である。映像に登場する人間は、AI(建築部位)に情報を求めることもなければ、AIの発言を正すこともない――彼らの会話は、答えを出すためになされるのではない。そのたわいのない会話は、非人間から見た世界の姿を巡る想像の産物であり、虚構の物語である。虚構はいわば「意図的なエラー」であり、意味解釈を受け手に委ねる点において、意味が固定されたフェイク(虚偽)とは異なる。虚構の物語は、AIのアルゴリズムを正しさと効率が支配する結果から、想像と逡巡が織りなすプロセスへと開いていく。と同時に、下階ではもうひとつのAI(スマートフォン)が上階の会話に反応して、一定間隔で別の虚構の物語を紡ぎ、世界を幾重にも拡張していく。

第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 日本館「In-Between」上階ギャラリーの展示風景 ©︎ Asako Fujikura + Takahiro Ohmura

畢竟、本展が示唆するのは主客未分の状況である。主客未分は、主体と客体、すなわち自己と他者が分かれていない状態を指し、哲学者・西田幾多郎のいう「純粋経験」を支える思想として広く知られるが、ずっと古くから東アジアの世界観の根幹にあった(*4)。たとえば禅僧の道元は、自己を含むあらゆる存在――人間も自然も事物も――が固定的な本質を持たず、移り変わり作用し合う、主客未分の世界を「一水四見」や「他己」という言葉で表している(*5)。西洋では人間と自然を二項対立でとらえてきたのに対して、日本では人間も自然の一部であると考えてきた。同様に、本展も人間とAIが互いの一部であるような状況を創出する。

「人々」から「存在」へ

「In-Between」の核にあるのは、日本館の建築からヴェネチアの公共性までを射程に収めるサイト・スペシフィシティと、人間と生成AIの開かれた関係を描き出すナラティヴである。前者は水平性に共鳴するコレクティヴの性格を、後者は東アジアの在来知である主客未分を想起させる。どちらの概念も、異なる存在を受け入れ、自らの枠組みを更新し続ける点で通底する。まさしく「中立点」であり、「適応」のひとつのかたちを提示している。

第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 日本館「In-Between」地上階ピロティの展示風景 Photo: Luca Capuano Courtesy: La Biennale di Venezia

最後に、重大な誤りを指摘しておこう。冒頭で確認した通り、intelligensという言葉には、人間の知性の重要性を示す意図があった。ラッティのいう通り、たしかにgensは人の集合を意味する。しかし実際のところ、intelligensはgensを含んでいない。というのもIntelligensは、inter-(あいだ)とlegere(読む、選ぶ)から成るintelligere(理解する)という動詞に、-ens(存在)が接続された語だからだ(*6)。つまり「知性」とは、様々なもののあいだから選び取る能力であり、その能力を持つ存在がintelligensであった。「存在」は、人間に限らず、動植物やモノも含んでいる。この意味において、生物と無生物がシームレスに会話する日本館の展示はintelligensの原義を的確にとらえている。

もっとも、人間と異なる知性を持つ存在とのコミュニケーションは、必ずしも言語によって媒介されるわけではない。AIや建築には人間と同じ感覚器官がなく、時間や空間に対する認識も異なる。ゆえに、非人間的な知覚を理解する方法は、言語以外に見出されるかもしれない。この点に関して、ひとつの可能性を示したのがベルギー館である。

「Building Biosphere(生物圏の建設)」と題された展示は、ランドスケープ・アーキテクトのバス・スメッツと植物神経生物学者のステファノ・マンクーゾによる協働プロジェクトで、建築を生態系としてとらえ直す視点から、展示室中央に巨大プランターを設置し、多種多様な植物を密植する。見かけは温室のようだが、そこでは植物とテクノロジーの統合によって微気候をつくり出す実験が行われている。ただし、その規範となるのは、言語を持たず、人間とは異なる時間を生きる植物の在来知だ(*7)。

第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 ベルギー館「Building Biosphere」会場風景 撮影:筆者

今回の建築展は、「緩和」から「適応」へのシフトにおいて、在来知が重要な参照項となることを示唆している。在来知とは、特定の地域で時代を越えて磨き上げられてきた集合知であり、人間ばかりでなく、建築や植物、大地にも宿り得る。「In-Between」がその一端を可視化したように、来るべき知性は、人間とAI、ひいては未だ知られざる在来知との交感を通じて醸成されるだろう。とすれば、いま問われているのは、その交感の回路を開く方法である。

*1──La Biennale di Venezia, “Introduction by Carlo Ratti,” accessed May 6, 2025, https://www.labiennale.org/en/architecture/2025/introduction-carlo-ratti.
*2──出展作家の砂山太一は、部位(エレメント)が単に「建物の柱や壁」を意味するのではなく、「地域や社会環境を取り巻く資源・情報、活動や経済」をも含んでいると指摘する。砂山太一「エレメント/建物の向こう側」、市川紘司、連勇太朗編『建築をあたらしくする言葉』(TOTO出版、2024年)、48-53頁。
*3──出展作家の大村高広は、コレクティヴの特徴として「ヒエラルキーを避け、水平的な組織体制を志向すること」を挙げる。大村高広「コレクティブ/異質な個人の連帯による集団性の枠組み」、市川紘司、連勇太朗編『建築をあたらしくする言葉』(TOTO出版、2024年)、108-13頁。
*4──小林敏明編『近代日本思想選 西田幾多郎』(筑摩書房、2020年)、10-46頁。
*5──増谷文雄訳注『正法眼蔵(二)』(講談社、2004年)、13-50頁。
*6──Oxford English Dictionary, s.v. “intelligent (n., adj., & adv.), Etymology,” s.v. “inter- (prefix), Etymology,” s.v. “lection (n.), Etymology,” and s.v. “-ence (suffix), Etymology,” accessed May 24, 2025.
*7──“Plant Agency: A Conversation between Stefano Mancuso (University of Florence) and Bas Smets,” in Building Biosphere, edited by Bart Decroos, Dennis Pohl, and Bas Smets (Flanders Architecture Institute, 2025), pp. 54-66.

近藤亮介

近藤亮介

美術批評家、キュレーター。1982年大阪市生まれ。ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン美術学部(Slade School of Fine Art)卒業。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。ハーバード大学デザイン大学院(Graduate School of Design)フルブライト客員研究員、東京大学教養学部助教を経て、現在、東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科非常勤講師。専門は美学芸術学・ランドスケープ史。日英米の芸術・造園の研究を軸に、理論と実践の両面からランドスケープを生活環境として読み解く活動を展開している。編著に『セントラルパークから東京の公園を見てみよう』(東京都公園協会、2023)、企画・キュレーションに「アーバン山水」(kudan house 、2023)など。