公開日:2025年8月5日

【戦後80年特集】92歳 中村宏インタビュー:なぜ80年前の記憶をいま「戦争画」に描くのか

卒寿を迎えた2022年頃から自身の戦争の記憶に基づく絵画制作を始めた中村宏が、子供時代の体験と作品に込めた意図を語る(画像は特記あるもの以外、ギャラリー58提供)

画家の中村宏、ギャラリー58「戦後80年 1945年の記憶」展の会場にて 撮影:編集部・灰咲光那

銃後の少年時代 よみがえる体験

92歳の中村宏は「絵画者」と名乗り、1950年代のルポルタージュ絵画をはじめ、そのときの社会状況と向き合った具象作品を世に送り出してきた。その中村が、2022年頃から制作を始めたのが自分の戦争体験に基づく「戦争画」だ。故郷を焼け野原にした空襲、夜空を赤く染めた艦砲射撃、恐怖に震えた防空壕の中……。80年前の記憶を丹念にたどり、描き出す。

個展「中村宏 戦争記録絵図」(ギャラリー58、2023)の展示風景

中村は1932年静岡県生まれ、日本大学芸術学部在学中の1953年から本格的に絵画制作を始め、政治・社会的事件を取材し記録する「ルポルタージュ絵画」で注目された。エイゼンシュタインのモンタージュ論を絵画に適用し、60年代以降は「観念絵画」「観光芸術」「タブロオ機械」など独自の方法論に基づく制作を展開。鑑賞者の自由な解釈を可能にする、飛行機や機関車、セーラー服の女子学生といった記号的モチーフを用いた作品でも知られるが、これまで戦争体験を直接表現したことはなかった。

12歳で終戦を迎えた中村が、いま戦争を描くのはなぜか。心の底に封じていた銃後の記憶とは。80回目の「終戦の日」が近づく7月にインタビューした。

*中村宏による「Why Art?」はこちら

空襲の恐怖 逃げ続けた日々

「今日死ぬか明日死ぬか、毎日が恐怖あるのみだった。空襲のサイレンが突然ウーウー鳴り出すたび、ワァー逃げろと防空壕に飛びこむ。なぜこんな戦争が?と思っても子供だから分からないし、何も言えずに『日本勝って』と祈るしかない。生きるために逃げて逃げて、ただ震えていた。この年齢になって思うけど、戦争の記憶は強烈すぎて消えないね。恐怖が感覚に染みついている」

中村宏 撮影:編集部・灰咲光那

中村が生まれ育った浜松市と近郊は、戦前から航空隊の飛行場があり、軍需工場の集積地でもあったため太平洋戦争末期に連合国軍の標的となった。大都市並みの27回の空襲や機銃掃射、海上から艦砲射撃の攻撃を受け、戦災による死者は3000人を超え、その多くが一般の人だった。計8万発の焼夷弾が投下された市街地は焼き尽くされ、見渡す限りの焦土と化した。

中村の作品《空襲 1945》は、青空を雲のような巨大なB29が横切る場面を下から見上げる構図で描く。焼夷弾は学校らしき建物に着弾する寸前で、画面右では炎が燃えている。記憶を頼りに自分が経験した戦争を描こうと決めた2022年に制作した。

中村宏《空襲 1945》(2022)、ギャラリー58での個展「中村宏 戦争記憶絵図」(2023)の会場風景より

「現実のB29はトンボくらいの大きさにしか見えなかったが、自分の恐怖心の象徴として拡大して描いた。恐さのあまり、流れる雲が機影に見えたこともあった。雲ふうの描き方は僕の心情を投影しているが、でも鑑賞する人には飛行機に見える。そうした人間の視覚認識の曖昧さがあるから絵画は成立するわけで、それは決して否定すべきものものじゃない。描写的リアリズムは現代では古くさく思われがちだが、マイナスをプラスに変えるやり方はまだまだ可能だと僕は思っている。そもそも絵画自体に物質的限度があるのだから、そのなかでどこまで表現が限界突破できるか。僕はそれを時代と、そのなかにいる自分の心情を同時進行的に探りながらやってきた。もはや開き直りの心境かもしれないね」

宣戦布告に高揚した人々

満州事変の翌年に生まれた中村は、幼少の頃から戦争の気配が身近にあった。浜松裁縫女学校(現浜松学芸中学校・高等学校)の創立者を祖父母に持ち、市中心部に近い学校敷地内の自宅で育った。父は同校の校長、母は教員を務める家庭は厳しく、「引っ込み思案な子供だった」という中村を魅了したのが『講談社の絵本』シリーズ。1936年に刊行が始まった同シリーズは、挿絵に一流の画家やマンガ家を起用し、偉人伝や昔話のほか、軍国主義をあおる戦時物もふんだんに掲載された。

「『講談社の絵本』の戦車や飛行機、突撃する兵隊の挿絵に夢中になり、真似して自分も描いた。周りの男の子も皆そうだった。思えば、あの挿絵はまさしく戦争画だった。少しでもうまく模写できると楽しくて、勉強なんかほっぽって描いてばかりいたよ」

「支那事変大勝記念号」(『講談社の絵本』第50号、1938)、東京国立近代美術館「記録をひらく 記憶をつむぐ」展(2025)の会場風景より 撮影:永田晶子

1941年の開戦時、中村は静岡県立師範学校付属小3年生だった。ラジオから流れる「(日本軍は)西太平洋において英米軍と戦闘状態に入れり」のフレーズをそらんじ、口ずさんで壮快感を味わったという。同年に小学校が国民学校に改称され、生活必需品の統制が始まるなど、戦時下での国家総動員体制はさらに強まっていった。

「対英米宣戦布告のときは大人も子供も『バンザイ!』『それ行け』と高揚し、僕もそうだった。小学校では先生に『軍国少年・少女の自覚を持て』とさとされ、授業は修身科目が重視されて天皇に身を捧げるように教わった。先生からいつも『お前たちは将来軍人になれ』と言われたから、嫌も応もなく自分もいずれ戦争に行くと思い込んでいた。始業の朝礼は日本軍が勝利した話ばかり、戦況が悪化しても先生はほとんど口にしなかったが、次第に敗色が濃くなっていることは噂話などから感じ取れた。子供同士でこっそりと『日本軍たまには勝ってくれ』とか言い合った」

1944年に学徒動員が始まった。「毎朝自宅前の校庭から、大勢の女学生が列をなして勤労奉仕へ出かける姿が見えた。女学生たちはモンペ履きに防空頭巾と白い鉢巻のいでたちで、父ら教員が引率していた」と中村は回想する。軍需工場に指定された日本楽器(現ヤマハ)は、中村家が経営する女学校の近くにあり、女子生徒らは軍用機の木製プロペラなどの部品作りに従事し、年齢が若い生徒も農家の茶摘みや田植えに駆り出された。

故郷を襲った機銃掃射と艦砲射撃

浜松は1944年12月13日に最初の空襲に襲われ、年が明けると度々空爆があり、毎日警報が鳴り響いた。「警報のたびに学校から自宅に帰り、授業どころじゃなかった」と中村。自宅庭には数人用の縦穴防空壕、裏山斜面には女学校の生徒も使う大規模な横穴防空壕が掘られ、警報が鳴ると慌てて内部に避難した。

2024年に中村が制作した《防空壕 1945》は、3つの防空壕と中央の巨大な手が目を引き、片端に防空頭巾をかぶった子供の顔が見える。手は、《空襲 1945》の画面右下にも登場させたモチーフだ。中村ら子供たちは、防空壕の中では爆風から身を守るために体を丸めて両手で頭を抱える姿勢を教え込まれていた。

中村宏《防空壕 1945》(2024)、「齣展」(2024)の会場風景より

空襲が激しさを増すなか、県立第二工業学校に進学した中村は、気賀村(現浜松市浜名区)の親戚宅に疎開し、軽便鉄道で市街地まで通学した。空襲警報が鳴るたび停車する車両の下に身を隠し、学校では兵士用のタコツボ(1人用防空壕)堀りなどの勤労奉仕に明け暮れた。低空飛行する戦闘機の機銃掃射にも2度ほど遭遇した。

「動くと機銃掃射の標的になるからと、遭遇したら地面に伏せてじっとする訓練をした。恐怖が日常化すると感覚がマヒするのか、B29を見て『おーい、こっちだ!』と手を振る友人もいた。なにせまだ子供だから、スリル満点の遊びみたいに戦争をとらえてやり過ごした面もあったと思う。それに僕は元々飛行機好きだったから、敵機が格好よくも見えてね。落として行った部品や薬きょうを拾って持ち帰ったりした」

《機銃掃射 1945》(2022)の前に立つ中村宏、個展「中村宏 戦争記憶絵図」(ギャラリー58、2023)の会場にて
中村宏 空襲の記憶-艦載機 2023

1945年7月29日夜、浜松に2千発の砲弾を撃ち込んだ艦砲射撃を題材にしたのが《艦砲射撃 1945》(2023)。同年6月18日の浜松大空襲により大部分が焼けた市街地は、艦砲射撃で壊滅的ダメージを受けた。その仄光を疎開先で見た中村は、校長を務める女学校を守って市内に残った父の死を覚悟したという。

中村宏《艦砲射撃 1945》(2023)、個展「中村宏 戦争記憶絵図」(ギャラリー58、2023)の会場風景より

「ドガーンと砲撃の大きな音が聞こえ、しばらくすると空がダァーと赤くなり、見ると数キロ離れた市街地がメラメラと燃えていた。海を越えて砲弾がこちらまで飛んでくる気がして、生きた心地がしなかった」。翌朝帰宅すると、女学校は砲弾7発が撃ち込まれていたが、父は奇跡的に生きていた。校舎は大破し、校庭にはスリバチ状の巨大な穴が開き、隅にある自宅は傾いていた。「戦時下で人間が生きるか死ぬかは、まったく偶然の運任せだと思い知らされた」

中村宏 空襲の記憶ー校舎 2023

敗戦を中村は疎開先の気賀村で知った。真っ先にしたのは畑に実ったトマトを大量に食べることだったという。「ずっと腹を空かせていたからね。戦争に負けた、もう食料を食い延ばさなくていい。そう思って手が伸びた」。先行きは見えなかったが、不思議に開放感があったと振り返る。

ルポルタージュの手法で時代を記録

戦後、高校を出た中村は上京し、1951年に日本大学芸術学部美術学科に入学した。政治と社会が激変するなか、大学の枠を超えて他美大生たちと学生運動に奔走し、美術の大衆化を目指す青年美術家連合に参加。社会主義リアリズムに触発され、新しいリアリティーの獲得を目指し記録性を重視するルポルタージュ絵画を山下菊二や池田龍雄、桂川寛らと始めた。

中村はスケッチブックを手に在日米軍立川飛行場の拡張に反対する砂川闘争や北富士米軍演習場反対闘争に参加し、初期の代表作《砂川五番》(1955、東京都現代美術館蔵、同館の「開館30周年記念 MOTコレクション 9つのプロフィール 1935→2025」展で展示中)、《富士二号》(1956、板橋区立美術館蔵)など一連のルポルタージュ絵画を制作した。絵画の主体性を主張する論客としても鳴らした。美術表現が多様化し、抽象画やコンセプチュアルな潮流が美術界を席巻したなかでも、一貫して具象にこだわり、社会や絵画の構造、鑑賞者との関係性を問う作品を描き続けてきた。

中村宏 砂川五番 1955 東京都現代美術館蔵

「つねに同時代の事件や世相に意識が向いて、戦時中のことはあまり思い出さなかった」

そう語る中村が、体験に基づく戦争画の制作を始めたのは90歳を迎えた2022年頃。「参加した催しで太平洋戦争の写真を見て突然、描こうと思い立った。少年時代に辛い思いをした、あの戦争とはなんだったのかを見つめ直したくなった。年齢を考えると、描くこと自体これが最後になるかもしれない。画業の集大成として、自分の戦争の記憶を描き残そうと考えた」

戦前・戦時中に描かれた戦争画への関心も背中を押した。陸海軍の委嘱を受け藤田嗣治や宮本三郎、中村研一ら著名画家が制作した作戦記録画は、戦後GHQにより米国に送られ、1970年に「無期限貸与」の名目で153点が日本に返還された。子供時代に中村は作戦記録画を見たことはなかったが、返還後は保管する東京国立近代美術館の常設展で数点ずつ展示され、目にする機会が増えていた。

「戦争を肯定し戦意高揚を図った作戦記録画に込められた思想は、もちろん僕は否定する。いっぽう、造形的に見て日本近代のリアリズム絵画として優れた作品もある。小磯良平とか、抜群にうまいよね。ただ、作戦記録画はこれまで一括公開されたことがないので全容が見えず、制作した画家たちの責任も結局うやむやになった。このままでいいのかと割り切れない思いがある」と明かす。

画面右、小磯良平《娘子関を征く》(1941、東京国立近代美術館〈無期限貸与〉)、東京国立近代美術館「記録をひらく 記憶をつむぐ」(2025)の会場風景より 撮影:編集部・灰咲光那

戦時下の庶民の受難を表現

中村は記憶をたどり、ときに思い出を絞り出すように戦争画の制作を進め、2023年に銀座のギャラリー58で開催した個展「中村宏 戦争記憶絵図」で4点のキャンバス作品やドローイングを発表。翌年に東京都美術館でのグループ展「齣展」に《防空壕 1945》を出品し、今夏にギャラリー58で開催された石内都や篠原有司男らとのグループ展「戦後80年 1945年の記憶」はドローイング5点を展示した。これまで描いた計5点のキャンバス作品のうち、《空襲 1945》は東京国立近代美術館に、他4点は東京都現代美術館に収蔵された。

中村宏、ギャラリー58「戦後80年 1945年の記憶」展の会場にて 撮影:編集部・灰咲光那

制作に着手した2022年にロシア軍がウクライナに侵攻した。「いつも民衆は一方的に武力で脅され、身を守る術もなく、命からがら逃げるしかない」。80年前を思い出しやりきれなさが募った。

描き進めるうち、自作について発見もあった。「僕は可愛らしい子供の顔が描けない。恐怖や恨み、怒りが混ざった表情になる。そうした子供の顔を実際に見たのかは定かではないが、戦時中の記憶を探るうちに空襲に遭ったときの自分や女学生たちの表情に思い当たる節があった。自分の原体験が作品に現れるのだと思う」と中村は説明する。

左から中村宏《機銃掃射 1945》(2022)、同《戦下の顔》(《4分の1について》を2023年に改題)、個展「中村宏 戦争記録絵図」(ギャラリー58、2023)の会場風景より
中村宏 火事と少女 2023

中村が、戦争画に限らず絵画制作の際に意識すると語るのが「対立物」だ。「敵か味方か、その構造がはっきりしている意味でも戦争画は興味深い。ただ自作では描き手の私の立ち位置が、目に見えるかたちとして描いた対立物のどちらかにあるとは限らない。画面隅っこの目立たない場所にあるかもしれない」

防空壕の隅で怯える子供、逃げる人影、機銃掃射になぎ倒される人の群れ……。ダイナミックな構図が目を引く中村の戦争画は、自身を含む庶民の受難が画面の片側にしかと刻印されている。戦争遂行者側の立場に立ち、大向こう受けを狙って人々の戦意を掻き立てようとした戦争記録画との最大の違いだろう。

中村宏 空襲 2022

来年2026年には、約10年ぶりとなる大規模回顧展が静岡県立美術館で開催される(2026年1月20日~3月15日)。「回顧展は学芸員におんぶに抱っこ状態で、内容に口を出さないようにしている(笑)。まだ出品は確定的ではないけれど、戦争を描いた作品は僕の最新形なので、ぜひ見てほしいと思っている」と中村。最近は画架の前に長時間立ち続けることに難しさを感じているが、「まだどうしても描きたい題材がある」と意欲は尽きない。

永田晶子

永田晶子

ながた・あきこ 美術ライター/ジャーナリスト。1988年毎日新聞入社、大阪社会部、生活報道部副部長などを経て、東京学芸部で美術、建築担当の編集委員を務める。2020年退職し、フリーランスに。雑誌、デジタル媒体、新聞などに寄稿。