公開日:2025年8月4日

なぜ「ひっそり」開催? 戦争画も展示する東京国立近代美術館「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」に迫る

戦争記録画を含む東京国立近代美術館のコレクションを中心に、計280点の作品・資料を紹介。会期は7月15日〜10月26日

会場風景より、左から伊原宇三郎《特攻隊内地基地を進発す(一)》(1944)、宮本三郎《萬朶隊比島沖に奮戦す》(1945)

ひっそりと開催される大規模な戦争画展

竹橋の東京国立近代美術館で、10月26日まで開催されている「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」展は、異例の展覧会である。戦後80年という節目の年に、同館収蔵の戦争記録画153点のうち24点を中心とした大規模な企画展でありながら、プレスリリースもチラシもポスターも内覧会もない。まるで「密かに」開催されているかのような状況に、美術界の関係者のみならず、鑑賞者からは戸惑いの声が上がっている。

同時開催のコレクション展とは対照的に、本展には積極的な広報が行われていない。メインヴィジュアルには松本竣介の《並木道》(1943)が使用されているが、このイメージだけでは「戦争画」を扱う展覧会だと判断することは困難だろう。編集部が開幕翌日に本展を訪れた際、外国人観光客を含む鑑賞者の多くが、タイトルから想像できない展示内容に困惑していたようにも見えた。

会場風景より、右は藤田嗣治《シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)》(1942)

戦後80年の今年、全国で多くの戦争関連展覧会が注目を集めているなか、本展は同館のコレクションを中心に他機関からの借用を加えた計280点の作品・資料から構成される大規模な「戦争画展」とも言える内容になっていた。にもかかわらず、その内容の全貌が十分に明かされないまま扱われている状況に、大きな違和感を覚える。

本展の冒頭で示されるメッセージは明確だ。そこには「戦後80年となる今年、戦争体験を持たない世代が、どのように過去に向き合うことができるかが問われています。これまで蓄積されてきた過去の記録に触れながら、それらをもとに新たな記憶を紡ぎだしていくこと。私たちは、美術館がこのような記憶を編む協働の場になることができると考えています」という言葉が書かれている。

そうであれば、戦争をめぐる表象に対する同館の向き合い方も問われるべきではないだろうか。戦後70年にあたる2015年、同館はふたつのフロアを使い、所蔵する藤田嗣治の全作品25点と特別出品1点の計26点を「MOMATコレクション特集 藤田嗣治、全所蔵作品展示」にて展示した。そのうち14点は戦争画で、カタログも制作され、戦争関連企画展として多くのメディアに取り上げられた。10年が経ったいま、本展はなぜ「ひっそり」と開催されているのだろうか。Tokyo Art Beatは現在、同館への取材を進めているが、ここでは本展の見どころを紹介していく。

*8月9日追記:美術館への取材を行った記事を公開
「「チラシ・図録なし」の戦争画展、その真相とは? 東京国立近代美術館の担当者に「異例」の対応について聞いた」


会場風景

「戦争記録画」というもの

一般的に「戦争画」と呼ばれるもののなかでも、同館が保管する「作戦記録画」は、軍からの委嘱により制作された公式な作品群だ。しかし、戦時に描かれた膨大な絵画全体から見れば、その一部にすぎない。より広い概念である「戦争記録画」は、軍の依頼の有無を問わず、戦闘場面を記念碑的に描いた作品を指している。さらにその周辺には、「前線の光景」「銃後の光景」「大陸・南方風景」「歴史主題」「仏教主題」「象徴(桜・富士山など)」を主題とする多様な美術作品が存在する。

本展は「戦争記録画」という狭い枠組みを超え、「戦時の美術」という包括的な視点から当時の文化現象をとらえている。戦争画を政治的プロパガンダの側面だけでなく、複雑な文化的背景を持つ歴史的資料として位置づけ直す試みと言えるだろう。

会場風景より、左から藤田嗣治《アッツ島玉砕》(1943)、小川原脩《アッツ島爆撃》(1942)

「遅い」メディアとしての絵画は何を描いたか

第1章では、ラジオや映画といった新興メディアが発達した時代において、「遅い」メディアである絵画がどのような存在価値を示したのかを検証する。

会場風景より、手前は靉光《自画像》(1944)、松本竣介《並木道》(1943)

さらに本章で注目されるのが、メインヴィジュアルにも使用されている松本竣介をはじめとする「新人画会」の活動だ。太平洋戦争中の1943年、靉光、麻生三郎、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男、寺田政明、松本竣介の8名によって結成された同会は、翌年9月の第3回展まで短期間ながら作品発表を継続した。彼らは作戦記録画制作のために軍から派遣された中堅画家より下の世代にあたり、戦争翼賛から距離を置いた自主的な制作態度を貫いた。とくに松本竣介は1941年に「生きてゐる画家」を発表し、軍の美術家への介入に対して異論を唱えている。のちに美術評論家の土方定一が戦後に彼らを「抵抗の画家」として評価した。

続く第2章では、台湾、朝鮮、満洲、華北といった植民地や占領地が「観光地」として紹介され、美術のモチーフとして扱われていく過程に焦点を当てる。

会場風景
会場風景より、右は小磯良平《娘子関を征く》(1941)

戦争をスペクタクル化した絵画たち

第3章では、日中戦争から太平洋戦争にかけて制作された作戦記録画を取り上げる。陸海軍は当時の中堅画家に対し、前線における兵士たちの活躍を銃後に伝え、後世に永く残すことを目的とした記録画の制作を依頼した。

そして、大画面に構成されたこれらの絵画は、聖戦美術展、大東亜戦争美術展、陸軍美術展、海軍美術展など、全国を巡回した展覧会で公開され大勢の観客を集めた。興味深いのは、展覧会が軍の委嘱による記録画のみならず、公募による作品も含んでいたことだ。1939年開催の第1回聖戦美術展の公募要項では、「戦線」「占拠地」「銃後」といった主題別のカテゴリーが設けられており、これらが「戦争画」と総称される絵画ジャンルを形成していった。

会場風景
会場風景より、左から山口蓬春《香港島最後の総攻撃図》(1942)、藤田嗣治《哈爾哈河畔之戦闘》(1941)

戦争という「神話」はいかに作られたか

戦時下の美術は、ほかの表現分野から切り離されたかたちで存在していたわけではない。文学や音楽、映画などの芸術ジャンルと連動しながら、時局を反映したイメージを供給し続けた。とくに紀元二千六百年を記念する事業や、太平洋戦争の開戦、そして戦況が悪化してからの「玉砕」「特攻」など社会的に大きな影響を与えた報道に際しては、必ず複数のジャンルから作品が登場し、それらが連鎖することで国民感情に働きかける力が増幅していった過程が見て取れる。

会場風景より、左から、鶴田吾郎《神兵パレンバンに降下す》(1942)、田村孝之介《佐野部隊長還らざる大野挺身隊と訣別す》(1944)
会場風景より、左は中村研一《コタ・バル》(1942)

第4章では、とくに「特攻」という概念の視覚化に焦点を当てる。特攻は1944年10月に編成された「神風特別攻撃隊」を端緒とする体当たり攻撃だが、興味深いのは、士気高揚の観点から体当たりの場面そのものが描かれるのは稀だったことだ。むしろ出撃前の盃をかわす儀式、旗を振っての見送り、飛行機が大空に消えていくまでのロングショットが繰り返し表象された。

たとえば伊原宇三郎の《特攻隊内地基地を進発す(一)》(1944)において、茨城県水戸東飛行場から飛び立つ陸軍特別攻撃隊「殉義隊」と、それを見送る同僚や家族が描かれている。機体の尾翼に記されたカタカナ「ツ」は隊長の敦賀真二の搭乗機を示し、彼らは12月21日と22日にミンドロ島付近で特攻を行った。見送る人々のなかにひとりだけ、画面を見る私たちのほうを見つめ返す少女がいる。この視線が、「神話化」されて特攻を見る私たちに何を語りかけているのだろうか。

会場風景より、左から伊原宇三郎《特攻隊内地基地を進発す(一)》(1944)、宮本三郎《萬朶隊比島沖に奮戦す》(1945)

総力戦が生んだ女流美術家奉公隊

日中戦争から太平洋戦争は、日本がはじめて経験する総力戦であった。第5章では、前線/銃後、男/女、大人/子供といった境界が戦況とともに変化し、それに応じて日常生活と社会的役割が変化していく過程を検証する。

会場風景

戦時下において、女性は「良妻賢母」として、さらに男性に代わる労働力として銃後を守る役割を担った。美術の分野では、多くの男性画家が従軍して戦地に赴くいっぽうで、女性画家には静物画や風俗画を描くことが求められていた。そんななか、1943年に洋画家・長谷川春子を中心に女流美術家奉公隊が結成される。奉公隊は「戦ふ少年兵」展を開催し、世の母親たちに息子を少年兵として志願させるよう呼びかけた。また1944年には陸軍省の依頼により、銃後を支える女性たちの諸相をモンタージュした《大東亜戦皇国婦女皆働之図》を共同制作している。

会場風景より、女流美術家奉公隊《大東亜戦皇国婦女皆働之図》(1944)

戦後美術が描いた戦争の傷跡

1945年8月の敗戦から1952年のサンフランシスコ平和条約による独立回復まで、日本は占領下での復興を経験した。このような複雑な「戦後」社会において、過去の戦争の事実から何が記憶され、何が忘却されたかという問題が立ち上がる。第6章では、1950年代に忘却に抗って登場した作家たちに焦点を当てる。戦時中には描かれることのなかった傷つき、変形した身体イメージを通じて、容易には消えることのない過去の戦争の悪夢が呼び起こされていく。

会場風景より、左は河原温《死仮面》(1956)

いっぽうで、この時期の作品には「官能的」とも形容されうる女性の肉体も登場する。戦時中の健康な男性身体が日本の象徴だったのとは対照的に、敗戦後の日本はしばしば女性の姿で表象された。進駐軍相手の街娼「パンパン」の社会問題化も、この時代背景として指摘される。

会場風景

ベトナム戦争が蘇らせた戦争の記憶

1965年以降のベトナム戦争激化は、日本人にとって過去の戦争を想起する契機となった。第7章では、この時期に再び活性化した戦争の記憶と反戦運動における芸術家の役割を検証する。

同時に、戦後20年を経て戦争体験記録の動きが本格化した。1968年の『暮しの手帖』の「戦争中の暮しの記録」特集、1970年の「東京空襲を記録する会」発足、手塚治虫や水木しげるによる戦争マンガの発表など、民間人の戦争体験を記録する市民運動が拡大していく。とくに1974年のNHK広島放送局の呼びかけに応じて2年間で2200枚余り寄せられた「原爆の絵」は、現場に居合わせた人々による記憶の再構成の特徴を示している。

会場風景

戦争記録画の返還と継承

戦争の記録を目的に制作された戦争美術は、他国では戦争博物館や歴史博物館に収蔵されることが多いが、日本では近代美術館である同館が保管している。第8章では、この特殊な状況の背景を探る。

会場風景より、左から宮本三郎《山下、パーシバル両司令官会見図》(1942)、真喜志勉《無題》(1977)

これらの作品は終戦直後に米軍に接収され、長らく米国内で保管されていたが、1960年代の返還交渉を経て1970年、「無期限貸与」というかたちで日本に「返還」された。戦時のプロパガンダとして機能した美術が、戦後25年を経た社会の変化を背景に、どのように読み替えられ、歴史のなかに位置づけられたのか。戦争画を描いた作家の反応や、本土とは異なる眼差しで事態を見つめていた沖縄の作家の視点も交えて、当時の日本社会の受容の仕方に注目する。

会場風景

戦争を知らない世代へ

同館は本展の意義について、「戦争を知らない」世代が実体験者と異なる視点で過去に向き合うことを積極的に考える機会だと位置づけている。芸術は過去に人々を戦争へと駆り立てる役割を果たしたいっぽうで、虚構を交えて構成する戦争表象を俯瞰的にとらえる視座や、時代や地域を超えた戦争経験との比較考察ができる視点を持つことで、戦争の記憶の継承にとって大きな可能性となるとも主張する。

しかし、未来の平和に向けた想像力につなげることが重要なのであれば、なぜこれほど消極的な広報にとどまるのか。戦争記録画を「貴重な記録」と位置づけながらも、その存在を広く知らせる努力が十分とは言えない現状には疑問が残る。戦後80年の節目に開催される充実した本展は、戦争画のあり方を考える貴重な機会となるはずだ。だからこそ、その価値をより多くの人に伝える工夫が求められるだろう。

*Tokyo Art Beatでは展覧会・イベントページで「戦後80年」展覧会の情報を随時更新中。こちらのタグをぜひチェックしてほしい。

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灰咲光那(編集部)

灰咲光那(編集部)

はいさき・ありな 「Tokyo Art Beat」編集部。慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。研究分野はアートベース・リサーチ、パフォーマティブ社会学、映像社会学。