公開日:2025年8月9日

「チラシ・図録なし」の戦争画展、その真相とは? 東京国立近代美術館の担当者に「異例」の対応について聞いた【戦後80年特集】

「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」展が東京国立近代美術館で10月26日まで開催中。戦争記録画24点を展示する最大規模の「戦争画」展は、なぜ「ひっそり」開催されているのか。戦争画はいまだタブーなのか、同館に取材した(撮影:編集部・灰咲光那)

「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」会場風景より、左から鶴田吾郎《神兵パレンバンに降下す》(1942)、田村孝之介《佐野部隊長還らざる大野挺身隊と訣別す》(1944)

作戦記録画24点を「ひっそり」公開

東京国立近代美術館で10月26日まで開催中の企画展「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」展は、アジア・太平洋戦争と美術の関係を扱った重要な展覧会だ。展示の中核をなすのは、戦後米軍が接収し1970年に日本に戻された「作戦記録画」。本展は、同館が所蔵する作戦記録画153点のうち24点を展示し、これは一度のまとまった公開点数として戦後最多規模となる(別会場の常設展でもさらに作品を展示)。借用作品や資料を織り交ぜ、報道や文学、軍歌、漫画など多分野が醸成した時代の「文脈」も提示しながら戦時・戦後の美術動向を浮き彫りにした本展は、戦後80年の節目にふさわしい直球の企画と言える。

いっぽう、本展レポートが指摘するように、あたかも「ひっそり」と開催するような広報体制に戸惑いの声が上がっている。チラシやポスター、カタログ、告知のリリースがなく、内覧会も開催されなかったのが「ひっそり」感の原因だ。「戦争」の文字がない展覧会タイトルや、松本竣介の都市風景画を使ったメインビジュアルも、戦争画が多数含まれる展示内容と乖離がある。戦意高揚のため陸海軍の委嘱を受け画家たちが制作した公式の作戦記録画は、戦後長くタブー視されてきたが、「いまもそうなのか」と受け止める人がいても不思議ではない。

本展レポートはこちら

「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」会場風景より、手前は靉光《自画像》(1944)、松本竣介《並木道》(1943)

美術館回答「共催取りやめ、予算の都合」

なぜ本展は異例の広報体制なのか、TAB編集部と筆者は東京国立近代美術館の大谷省吾副館長にメールを送るかたちで取材を行い、展覧会担当者からメールによる回答を得た。なお、本展の主担当は鈴木勝雄企画課長、副担当は大谷副館長と佐原しおり研究員が務めた。

展覧会担当者は回答で、チラシやカタログを作成しなかったのは「ひとえに予算の都合によるもの」と説明。当初メディアとの共催展を想定して準備を進めたものの、共催展は観客動員を図る様々な広報策を講じる必要があるが、本展を「センセーショナルなものにすることは美術館の本意ではない」ことや、学術的研究に基づきデリケートなメッセージを鑑賞者に伝えることを企図したため、途中段階で共催展を取りやめ、館のみの自主展に切り替えたと明かした。

回答は国立美術館が自主展のための予算がきわめて限られる現状を指摘し、限定的な予算の使途を検討した結果、遠隔地もある他機関(福岡アジア美術館、筥崎宮、広島平和祈念資料館など)からの借用作品の輸送費捻出と、すべての解説文をバイリンガル(日英)にするため「チラシとカタログに予算を割くことを断念しました」と述べた。カタログの不作成は「担当者としても不本意で、現場レベルではなんとか記録だけでも残したいと思いつつも現段階ではまだ具体的な方向性を見いだせていません」と苦渋をにじませた。

「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」会場風景より、藤田嗣治《神兵の救出到る》(1944)

展覧会タイトルに関しては、「本展は、戦争記録画を歴史の文脈のなかで客観的に分析し、これをどのように次の世代へ継承していくかということを冷静に考える場であることを第一に企画されました。(タイトルは)その願いを込めたもの」と回答。編集部の「事前に得られる情報が少なく、鑑賞者ファーストと言えないのではないか」との質問に対して、重ねて本展を「センセーショナルなものにするのは館の本意でない」と強調し、「たとえば『戦争画展』と銘打つことで、当館の保管する153点(の作戦記録画)すべてが一括公開されるような誤解は受けたくないという思いはありました。当館はこれまで一貫して、戦争記録画はあくまで歴史の流れのなかで位置づけを見ていくべきものという態度で公開を続けてきました」と記した。

いまも戦争記録画はタブーなのか

さらに「いまも戦争記録画はタブーなのか」との疑問には、担当者は「タブーでしたらそもそも本展は実現していません」と言明したうえで、「ただし、戦争に関係した諸外国に対してきわめて繊細な配慮が必要であることも事実です」と述べた。今回はいつも以上に「海外からの観客への丁寧な説明が必要」との考えから会場説明をフルバイリンガルにしたという。解説文はギリギリまで推敲や検討を重ね、そのために本展の周知が遅れた面もあったと釈明し、「まず何より、展覧会の中身を論じていただきたいと強く願います」と回答を結んだ。

「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」会場風景より、左から藤田嗣治《アッツ島玉砕》(1943)、小川原脩《アッツ島爆撃》(1942)

予算不足により貴重な展示記録の継承が困難に

回答でまず驚かされたのは、本展のチラシやカタログを予算上の理由で作成できなかったことだ。同館や国立西洋美術館など7つの国立館が所属する独立行政法人国立美術館への国の運営交付金は、年々減額傾向にあり、かねて財政的な厳しさは指摘されてきた。回答は、美術の振興と調査研究、作品保存の中心的役割を担う国立美術館が直面している危機的状況の一端を示すものと言えないだろうか。

展示作品の写真や解説、関連資料、論考を掲載する展覧会カタログは、より深い鑑賞や理解の助けになるばかりでなく、後世に伝える貴重な記録資料だ。展覧会は未見の人でも「記録をひらく」ことで、知見や刺激を得ることができ、さらなる研究の深化や新たな展開が期待できる。今後様々な研究者が参照するであろう本展を、記録として残せない状況は憂慮される。展覧会担当者が言うように、美術館として何か方策を見出せることを強く願っている。

「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」会場風景より、左から伊原宇三郎《特攻隊内地基地を進発す(一)》(1944)、宮本三郎《萬朶隊比島沖に奮戦す》(1945)

公開中止事件から48年、戦争画への「配慮」はいつまで?

本展を「センセーショナルなものにしたくない」と重ねて強調したのも示唆的だ。逆説的に言えば、これは作戦記録画を含む戦争画がセンセーショナルに扱われた過去、あるいは現在もそうなり得る恐れを示している。そうした懸念がつねに伴う戦争画の目的や種類、主題の幅広さは本展レポートを参照してほしいが、ここでは返還後の作戦記録画の展示経緯を振り返っておきたい。

「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」会場風景より、左は宮本三郎《山下、パーシバル両司令官会見図》(1942)

敗戦後にGHQの指令で収集された153点の作戦記録画は、東京都美術館に置かれたが、展示スペースを圧迫したため保管場所の問題が浮上。米軍は1951年に戦利品の扱いで米国に送り、絵画群は米軍施設に保管された。1961年以降、戦時に聖戦美術展を主催した朝日新聞社や一部政治家を中心とする返還要求の動きが相次ぎ、両国間交渉の結果、法的権利は米国に残し日本側に自由な扱いを許す「無期限貸与」の名目で1970年に返還された。

作戦記録画を一括収蔵した東京国立近代美術館は、状態が悪い作品を修復し、1977年に153点のうち代表的な50点の公開を計画したが、開幕直前に中止。理由として戦争賛美と誤解される懸念やアジア諸国に対する配慮と説明されたが、突然の公開中止は様々な憶測を呼んだ。ようやく同年7月に本展にも展示されている宮本三郎《山下、パーシバル両司令官会見図》藤田嗣治《哈爾哈河畔之戦闘》中村研一《コタ・バル》など4点が常設展に展示され(*1)、その後も展示替えのたびに入れ替えて公開されたが、一度に数点ずつに留まり、鑑賞できる作品は限られた。

「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」会場風景より、左は中村研一《コタ・バル》(1942)

消極的な公開姿勢は、上記理由に加え、存命者も多かった画家への配慮もあったと考えられる。戦争の称揚や記録に寄与した戦争画は、戦後「負の遺産」に転じ、手がけた画家の人生に大きな影響を与えた。責任糾弾の標的にされた藤田嗣治が日本を去り、フランスに帰化した例は有名だが、自作の画集掲載や展示を拒み、口をつぐんだ作家もあり、戦争画のタブー視に拍車をかけた。一部批評家や九州派の画家・菊畑茂久馬は作戦記録画の重要性を訴え、一括公開を求めたが、いまに至るまで実現せず、戦時期は長く「日本美術史の空白」と見なされてきた。

東京国立近代美術館の公開姿勢に変化が見えたのは、2010年代以降。展示室の改装後、大作が多い作戦記録画を多いときで7、8点を常設展で展示するようになり、戦後70年の2015年には戦争画14点を含む藤田嗣治の全所蔵作品の特集展示が実現し、図録も制作された。当時筆者が取材した担当者の蔵屋美香(現横浜美術館館長)は、戦争画に対する関心の高まりや関係者の大半が亡くなったことを公開拡大の理由に挙げ、「より冷静に鑑賞や分析を行う雰囲気が醸成されてきた」と語った。

今回の展覧会は、時代や状況に目配りしながら作戦記録画の公開拡大を進めてきた同館が、総体的な歴史化という次の段階に踏み出した成果に思える。だが、いつまで経っても作品自体の全貌が見えないと、疑問はくすぶり続けるだろう。なぜ、それほど公開に慎重なのかと。

「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」会場風景より、左から山口蓬春《香港島最後の総攻撃図》(1942)、藤田嗣治《哈爾哈河畔之戦闘》(1941)

「新しい戦前」に問われる戦争画の意味

戦時美術は、プロパガンダか、芸術か。この宙ぶらりんの問いは、戦争のなかで生まれた表象である戦争画が現代においてより多くの人に鑑賞され、議論され、多角的分析に揉まれてはじめて、成熟した着地点が見つかるのではないだろうか。その点、必ずしも本意でないといえ、本展の意義を積極的に伝えない美術館の姿勢を残念に思う。

1970年代に先陣を切って戦争画の意義を論じた故・菊畑茂久馬は、2015年に同館で一括公開された藤田嗣治の作戦記録画を見た感想を次のように記した。

「藤田の本ものの戦争画を見て、思いもかけない気配が画面に漂っているのを感じた。それはどの絵も、どんな残虐な光景でも、実に手順通り、まるで猫のじゃれている姿を再現するように、醒めた筆で描いている。まさにプロとして『裸婦』や『猫』のシリーズのように、もう一つの主題として『戦争画』を描いているということだ。国家存亡の光景(『サイパン島同胞臣節を全うす』)でも筆は平然として、プロの気概である」(*2)

本物を見ることが作品理解のすべてではないが、実際に絵の前に立ち、画面に目を凝らしてキャッチできるものは多い。本展に並ぶ作品群から、世界中で暗雲が広がる「新しい戦前」(*3)を生きる私たちは何を汲み出せるだろうか。

「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」会場風景より、右は藤田嗣治《サイパン島同胞臣節を全うす』》(1945)

*1——針生一郎・椹木野衣・蔵屋美香・河田明久・平瀬礼太・大谷省吾編『戦争と美術 1939-1945』(国書刊行会、2007)、平瀬礼太「戦争画の行方 1945~現在」
*2——「毎日新聞」2015年10月7日夕刊、菊畑茂久馬「醒めた筆にプロの気概 藤田嗣治の戦争画、全14点公開」
*3——タレントのタモリが2022年テレビ番組で発言した不安定化する政治状況を意味する言葉。

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永田晶子

永田晶子

ながた・あきこ 美術ライター/ジャーナリスト。1988年毎日新聞入社、大阪社会部、生活報道部副部長などを経て、東京学芸部で美術、建築担当の編集委員を務める。2020年退職し、フリーランスに。雑誌、デジタル媒体、新聞などに寄稿。