公開日:2025年8月20日

SNS時代の美術鑑賞――「映え」を目的に美術館に行くことは、美術にとって悪なのか?(文:伊藤結希)

美術館での自撮り(セルフィー)は迷惑? 「映え」を求めて美術館に行くのは浅はか? 議論が絶えないこのトピックの、本当に問題点を探る

現在Instagramで人気の「ス・ドホ」展(テート・モダン)の会場風景 撮影:筆者

SNSと美術館の現在

高性能なカメラを内蔵したスマートフォンとInstagramを中心とした新たなツールの登場によって、美術鑑賞のあり方はこの十年で大きく変わった。SNSに投稿された展覧会の写真が新たな来館者を誘い、その来館者がまた作品を撮影して投稿する。こうした循環は、もはや美術館広報が狙うまでもなく自然に発生している。

近年は日本の美術館でもSNSでハッシュタグをつける写真投稿を鑑賞者に促し、写真撮影可の範囲を広げる展覧会が増えた。しかしながら、美術館で写真を撮って楽しむ人々、いわゆる「インスタ映え」をモチベーションとして来館する鑑賞者を快く思わない美術の専門家や愛好家も少なくない。本稿では、「映えを目的に美術館に行くことは、美術にとって悪なのか?」という問いを出発点に、SNS時代の美術鑑賞をめぐる批判的言説を考察する。

「映え」目的は悪であるという言説

「映え」目的で美術館に行く人々が非難される際、その論旨はおおまかに次のふたつに分類できるだろう。第一に、事故や混雑などマナーの問題、そして第二に、インスタ映え=軽薄で消費的な、言い換えれば「浅い」鑑賞であるという批判である。

まず、マナーに関する問題で深刻なのは、セルフィー中の作品破損だ。直近ではフィレンツェのウフィツィ美術館で、鑑賞者が絵画中の人物のポーズを真似てセルフィーを撮ろうとした際によろけてキャンバスに穴を開けてしまうという事件があった。このほかにも撮影に夢中になるあまり足元の作品を踏んでしまったり、彫刻作品に腰掛けて撮影しようとして破損させたりと、類似の事例は枚挙にいとまがない。世界各地の美術館でセルフィーが原因となる事故がコンスタントに発生している状況だ(*1)。

破損された《ファン・ゴッホの椅子》 出典:Courtesy of the Palazzo Maffei, Verona, Italy

しかし、ここで注意したいのは、セルフィー中の事故はなにも美術館に限った話ではないという点である。絶景スポットでセルフィーを撮ろうとして転落死、というニュースを目にしたことのある人も多いだろう。撮影行為が他の鑑賞者の妨げになるという批判もまた、「映え」目的の鑑賞者に限られた話ではなく、鑑賞マナー全体に関わる問題である。したがって、本稿ではマナー問題の議論には深く踏み込まない(*2)。

注目したいのは、もうひとつの問題、すなわち「映え」を目的とした鑑賞行為が「浅い鑑賞」と見なされ、それゆえに鑑賞態度として好ましくないとされる風潮である。とくに美術館という空間においては、この考え方が美術の専門家や愛好者のあいだでうっすらと、しかし根深く共有されているように思われる。そして、それは美術と美術館の将来を考えるうえでひょっとしたらマナー以上に深刻な問題かもしれない。

たとえば、アイドルグループAKB48のメンバーが各地の美術館を訪れ、「インスタ映え」を通じて、美術館や美術の魅力を発信していくという美術館連絡協議会と読売新聞によるプロジェクト「美術館女子」(2020)は、そのジェンダーバイアスまみれの広報内容と美術館が教育機関であることを等閑視した広報方針によって炎上した。しかしながら、当時の美術関係者からの反応では、企画の問題点を指摘する過程で、インスタ映えを目的にした来館そのものを忌避する発言も見られた。次のような発言だ。

「『映え』を追求することと、作品の理解は結びつかないし、(他の来館者の)鑑賞を妨げることにもなりかねない」加治屋健司(*3)

「インスタ映えはたしかに浅薄かもしれないが、その軽さこそが現状の困難を乗り越えるための一つの回路になりえるかもしれない。コロナ禍のいま、インスタグラムの力を正しく信頼するべき時ではないか」南島興(*4)

加治屋の発言は、「インスタ映え」を過度に強調し、美術作品をセルフィーのための壁紙のように扱う広報方針に対する適切な批判であることはあらかじめ断っておきたい。しかしながら、それでもなお、彼のコメントからは美術鑑賞には正しい鑑賞の仕方があるという暗黙の了解(そして、そこには写真撮影をして楽しむタイプの鑑賞方法は含まれていない)を読み取ることができよう。また南島は、本文中で美術館や作家もインスタ映えを戦略的に利用しており、映えと美術館は共犯関係にあると指摘しながらも、最終的な上述のコメントが示唆するのは、<映え目的の来館は歓迎されるものではないが、美術館の継続的な運営のためには受け入れるべきだ>というネガティブな見解だ。

ここからわかるのは、美術関係者が明らかに「見る」と「撮る」を対立的にとらえていることである。作品を「見る」より「撮る」ことが目的化しているという懸念と、ゆえに美術館で写真撮影を楽しむ人たちが芸術作品を即物的に消費しているという憂慮、これらが組み合わさって「作品の理解には結びつかない」ひいては「浅い鑑賞」という印象を導き出しているのだと思われる。

「浅い/深い」鑑賞という幻想

だが、そもそも「浅い/深い」鑑賞とは何を基準に決まるのだろうか。作品をじっくり見てキャプションを丁寧に読み込む鑑賞は「深い」もので、いっぽうでスマートフォンを手に写真を撮って立ち去る鑑賞は「浅い」のだろうか。

まず当然のことながら、形式的に長時間作品を見ていても、それが深い思索に繋がっているとは限らない。つまり、「浅い」か「深い」かは外形的には判断できないのである。なにより他者の鑑賞体験を一方的に断じること自体がナンセンスであることはいうまでもない。「浅い/深い」という鑑賞をめぐるヒエラルキーは、じつのところ幻想にすぎないのではないだろうか。

ここで紹介したいのがスタンリー・フィッシュが提唱した「解釈共同体」だ。フィッシュの「解釈共同体」概念に照らせば、作品解釈には唯一絶対の正解があるのではなく、むしろそれは鑑賞者が属する文化的・社会的背景や価値観によって各々形作られるものだとされる(*5)。美術館は教育機関として、専門知に基づいたある程度の共通理解を提示する責任を担っているが、それもまた特定の「解釈共同体」によって生まれたひとつの見方に過ぎない。こうした視点に立てば、作品の意味を自分なりに咀嚼する、いわゆる「深い」鑑賞とは、たんに知識や教養に基づく知的なアプローチのみを指すものではなく、感情的な共鳴、個人的な記憶との結びつき、形式や素材に対する直感的な反応など、より多様なレベルで成立し得るものであることは自明だ。つまり、インスタ映えを追求する人々が所属する各共同体にも、その共同体ならではの解釈を導き出すことができるはずなのだ。

Instagramを通じた鑑賞体験について、ある論文は次のような肯定的な見解を示している。来館者は写真の被写体を選び、撮影方法、フレーム、キャプション、ハッシュタグ、テキストを決めるというSNSへの投稿作業を通じて、展覧会を自らの視点で再キュレーションするようなある種の創造性を発揮しているというのだ(*6)。そして、この創造性は、正式な美術教育に基づくものではなく、むしろ日常的な能力に根ざしたヴァナキュラーなクリエイティビティだという。ここで重要なのは、論文では直接的には言及されていないが、投稿のための編集作業はたいていの場合美術館外で行われるということだろう。つまり、「浅い/深い」鑑賞が外形的に判断できないばかりか、SNS時代の美的経験は美術館という空間内で完結するのではなく、その外部においても拡張され、継続的に育まれているのである。これは、美術館で見かける鑑賞者の鑑賞態度が鑑賞のすべてではないことを意味する。

ルーヴル美術館《モナ・リザ》の展示室 撮影:編集部

「見る」と「撮る」の二項対立は時代遅れ?

では、写真撮影を通じた作品との関わりが実際にどのように成立しているのか、具体的な事例として草間彌生の「無限の鏡の間」シリーズを取り上げたい。というのも、インスタ映えの文脈で人気を博す本シリーズは、写真を撮ることを通じて鑑賞者が草間の芸術表現の核である「自己消滅」(草間の幻覚体験に由来する、自他の境目が曖昧になりひとつになる感覚)を感覚的に理解しているように思えてならないからだ(*7)。

草間が鏡を用いたインスタレーションを初めて制作したのは「インスタ映え」という言葉が生まれる遥か昔、1965年の「フロアー・ショー」である。当時の記録写真では、鏡で反復するソフトスカルプチュアに囲まれながら全身赤いタイツで仁王立ちする草間の姿が収められている(興味のある方は《無限の鏡の部屋―ファルスの原野》で検索すると画像を確認できる)。この演出された写真は、草間の「自己消滅」を効果的に表現するセルフ・プロモーション的な方法であるが、なにより興味深いのはこんにちセルフィーを撮って草間作品を楽しむ鑑賞者たちの写真にもヴィジュアル的に似通っている点である。カメラという目を通じて得た自己像によって作品に備わった「自己消滅」の力が増幅し、人間の目を通して鑑賞するのとはまた別の体験をもたらしているという意味では、撮影を通じた鑑賞方法が、決して浅いと一蹴できるものではないことが理解できよう。無論、作品のメディウムにもよるだろうが、ことインスタレーションに関しては、「自分がそこにいた」という写真による記録が鑑賞で重要な役割を担う場合も多い。草間のケースは、写真を撮ることが芸術鑑賞から遠ざかるのではなく、むしろ作品理解に結びつく可能性を持つという好例だろう。

「INFINITY - SELECTED WORKS FROM THE COLLECTION」(エスパス ルイ·ヴィトン大阪)会場風景より、草間彌生《無限の鏡の間―ファルスの原野(または フロアーショー)》(1965/2013) 撮影:編集部

まとめると、「浅い/深い」鑑賞というヒエラルキーがとらえどころないまやかしであるだけでなく、もはや「見る」と「撮る」を対立的にとらえるのも時代遅れなのかもしれない。スマートフォンのカメラを通して見るという行為もまた、現代における新たな「見る」体験のひとつとみなした方が建設的な議論を引き出せるはずだ。

本当に問題なのは何か——鑑賞の均質化

では、SNS時代の美術鑑賞で真に問題なのは何か? 美術館とセルフィーの関係を論じたある論文では、写真撮影が必ずしも創造性や独自性を伴うとは限らないこと、そして投稿の多くが類似した場所・構図・ポーズ・ハッシュタグであることを指摘している(*8)。このような傾向は、SNS時代の美術鑑賞においてもっとも懸念すべき点、すなわち、鑑賞体験の均質化を浮き彫りにしている。

実際、自分自身の感覚に従って作品と向き合うことが、これまで以上に難しくなっているように思える。その証拠に、SNS上に投稿される展覧会の写真では、展示された作品群のうちごく一部の作品だけがアイコン化して過剰に注目される傾向が顕著だ(*9)。そして、それはSNS上で繰り返し共有されることにより、「この作品を見て感動しなければならない」「この展覧会に行ったらこの作品を撮影するべき」というある種の先入観が、展覧会に足を運ぶ前から形成されてゆく。事前にSNSで予習をしてから予定調和的に美術館を楽しむという現象だ。

こうした鑑賞体験の均質化は、なにも鑑賞者側だけの問題ではない。美術館の展示のあり方もまた、それを助長している側面がある。たとえば、「ファストフードのようにアートを提供している」と評されたMoco Museumは、アムステルダム、バルセロナ、ロンドンの三都市に展開するインスタ映えに特化した美術館の象徴的な存在である(*10)。

Moco Museumロンドンの会場風景より、中央の車はダニエル・アーシャムの作品 撮影:筆者

同美術館ではアンディ・ウォーホルやジェフ・クーンズ、バスキア、草間彌生など視覚的にキャッチーな作品を並べ、毒にも薬にもならない無難なキャプションを付している。昨年開業したばかりのロンドンのMoco Museumに訪れてみると、展示作品のうちほとんどが個人蔵からの借用あるいはアーティストからの直接の借用であることがわかる。借用可能な作品を展示しているだけで、なぜその作品なのか、作家のキャリアの中でどのような位置づけにあるのかといった文脈的な意図は読み取れないのである。視覚的インパクトが最優先された構成ゆえ、写真を撮る以外で作品を楽しむための仕掛けがない。

Moco Museumロンドンの会場風景より、草間彌生の版画 撮影:筆者

Moco Museumは極端な例かもしれないが、均質化が個人の鑑賞態度やSNS文化だけの帰結ではなく、美術館側のプレゼンテーションとも密接に結びついているという意味では無視できない事例である。

Moco Museumロンドンの会場風景より、アンソニー・ジェームズの作品(部分) 撮影:筆者

もし、こうした均質化の状況に抗うように、鑑賞者が自分だけの視点で「映え」を見つけ出すことができれば、それは紛れもなく優れた鑑賞体験であるに違いない。結局のところ、どれだけ主体的に作品と向き合い、思考を深められたかという点が重要であるという意味では、写真を撮る鑑賞も、撮らない鑑賞も同じ土俵にあるのだ。したがって、「映えを目的に美術館に行くことは悪なのか?」という問いそのものが、的外れだといえる。

SNS時代の美術鑑賞における課題は、決して鑑賞者に写真を撮ることをやめさせて実物の作品をじっくり鑑賞するように強要することではない。そうではなく、他者によってかたち作られた「見るべき作品」や「撮るべき構図」、「言うべき感想」に迎合せずに、自らの感性に基づいた鑑賞を取り戻すこと――それこそが、SNS時代の美術鑑賞における真の課題ではないだろうか。

直島にて、草間彌生《赤かぼちゃ》 撮影:編集部

*1——Sarah Cascone, ‘Museum Visitor Breaks Priceless Crystal ‘Van Gogh’ Chair’, artnet, 16 June 2025, https://news.artnet.com/art-world/visitor-breaks-swarovski-crystal-van-gogh-chair-2657594(2025年7月24日閲覧); Claire Selvin, ‘Visitor Damages Antonio Canova Sculpture While Attempting to Take a Selfie’, ARTNews, 4 August 2020, https://www.artnews.com/art-news/news/antonio-canova-sculpture-damaged-italy-1202696024/(2025年7月24日閲覧)
*2——美術館によっては自撮り棒の持ち込みを明確に禁止しているところや、金沢21世紀美術館の《スイミング・プール》のように混雑緩和のために完全予約制を導入し、作品と鑑賞者の安全を守るための対策を実施しているところもある。
*3——平林由梨、高橋咲子「『女性は無知の観客か』『作品がまるで脇役』……『美術館女子』キャンペーンにネット上で批判」『毎日新聞』2020年6月16日、https://mainichi.jp/articles/20200616/k00/00m/040/122000c(2025年7月24日閲覧)
*4——南島興「美術館女子炎上問題、『インスタ映えはアートをないがしろにしている』と言う人の矛盾」『文春オンライン』、2020年6月28日、https://bunshun.jp/articles/-/38696(2025年7月24日閲覧)
*5——フィッシュの「解釈共同体(interpretive community)」概念はもともと文学理論として展開されたが、幅広い意味での解釈学として視覚芸術にも応用可能だろう。実際に、英・ノッティンガム城博物館&美術館で行われたエスノグラフィー調査では、来館者が属する異なる「解釈共同体」が美術鑑賞に大きく作用していることを示している。Stanley Fish, Is there a text in this class? The authority of interpretive communities (Cambridge, Massachusetts and London: Harvard University Press, 1980), pp. 167-173; Eilean Hooper-Greenhill and Theano Moussourim, Visitors’ Interpretive Strategies at Nottingham Castle Museum and Art Gallery (Research Centre for Museums and Galleries Department of Museum Studies and University of Leicester, 2001), pp. 17-33.
*6——Alexandra Weilenmann, Thomas Hillman and Beata Jungselius, ‘Instagram at the museum: Communicating the Museum Experience through Social Photo Sharing’, Proceedings of the SIGCHI conference on Human factors in computing systems, 2013, n.p.
*7——美術批評家のAdrian Searleは、テート・モダンで大盛況のうちに3年弱のロングランとなった草間の個展「Yayoi Kusama: Infinity Mirror Room」について、「小さな子どもとくれば、あるいは自分がセルフィーを撮ることに興味をもっていれば…(楽しめたのに)」と星ふたつの低評価をつけている。記事からは「インスタ映え」的な体験を楽しむ人たちを軽んじるニュアンスを読み取ることができる。 Adrian Searle, ‘‘My cheapo garden fairy lights do this too’ – Yayoi Kusama: Infinity Mirror Rooms’, The Guardian, 17 May 2021, https://www.theguardian.com/artanddesign/2021/may/17/japanese-yayoi-kusama-infinity-mirror-rooms-review-tate-modern(2025年7月24日閲覧)
*8——Robert Kozinets, Ulrike Gretzel, and Anja Dinhopl, ‘Self in Art/Self As Art: Museum Selfies As Identity Work’, Frontiers in Psychology, 8:731, May 2017, p. 10.
*9——SNS上で特定の作品が注目される現象については、美術館コレクションが伝統的にアイコン化してきた作品とは別の新しい代替アイコンが民主的に生まれる可能性があるとして、前向きにとらえている論文もある。Neil Wilkin, Duncan Garrow & Chris Ryder, ‘From overlooked objects to digital ‘icons’: evaluating the role of social media in exhibition making and the creation of more participatory and democratic museums’, International Journal of Heritage Studies, 31:1, 2025, p. 106, p. 117.
*10——Phin Jennings, ‘Is Moco Museum Serving Up ‘Fast-Food Art’ for the Instagram Era?’, Frieze, 26 September 2024, https://www.frieze.com/article/moco-museum-fast-food-art-instagram-2024(2025年7月24日閲覧)

伊藤結希

いとう・ゆうき

伊藤結希

いとう・ゆうき

執筆/企画。東京都出身。多摩美術大学芸術学科卒業後、東京藝術大学大学院芸術学専攻美学研究分野修了。草間彌生美術館の学芸員を経て、現在はフリーランスで執筆や企画を行う。20世紀イギリス絵画を中心とした近現代美術を研究。